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仕事
そして10日後。
「じゃあ行ってくるよ。約束通り、今日は早く帰ってくる」
靴を履いて土間の真ん中で立ち止まると、総治郎は出発の挨拶をした。
「はい、ありがとうございます。お待ちしていますね」
いつものように総治郎を出迎えてくれた直生の表情が、今日は一際明るい気がする。
もうすぐ好きでもない中年男との無味乾燥な結婚生活から解放され、意中の相手と添い遂げられるのだと思えば、嫌でも明るくなるだろう。
それは総治郎としてもありがたいことだった。
直生と縁を切ることができたら、この息の詰まるような生活ともおさらばできる。
好きな時間に起きて、好きなときに好きな物を食べられる、悠々自適な生活が戻るのだ。
──さて、どんな男を紹介されるのやら
玄関ドアを閉めると、さっさと車庫まで向かってセダンに乗り込む。
今日は久しぶりの出勤だからしっかりしなくては、と総治郎は気を引き締めて、セダンのキーを差し込んだ。
エンジンをかけ、セダンを車庫から出したところで、自宅の窓から直生がこちらを見つめているのが見えた。
総治郎が去ったのを確認した後、意中の相手を連れ込むためであろう。
それなら急いで出てやるに限る、セダンをスタートさせて、総治郎は意気揚々と会社に向かった。
現在、午前8時半。
始業は9時からなので、社員の姿はない。
自分が姿を見せると社員は萎縮してしまうため、極力目立たず動くようにしているのだ。
──さてと、まずは経理部だな
総治郎は会社に着いてすぐに自室に向かい、パソコンを開いて電源を入れた。
まずは経理部が提出したデータを見て、各部署の経費の出納に矛盾がないかを確認する。
──問題ないな。次は人事部のデータだ
続いて、人事部から提出されたデータを起動した。
総治郎の会社は本社と子会社があり、さらにそこで働くパートやアルバイトなんかも含めた場合、社員数が10000人前後にもなる。
仕事において総治郎が最も重要とするのは、「従業員の名前を覚えること」である。
人間というのは、はるか上の立場の人間に名前を覚えてもらうだけで、モチベーションが上がるものなのだという。
会社の存続は、社員の仕事にかかっている。
だから、その仕事になるだけ応えられるように、総治郎はこうしたデータチェックを欠かさない。
人任せにしようと思えばできるが、あえてそれはしない。
何かしらの問題が起きて新聞沙汰にでもなったら、責任はすべて総治郎の肩にかかる。
その際に、「部下の誰かが勝手にやった」などと言ってしまうようでは、会社全体の信頼を失う。
そうならないためにも、総治郎は有り余る時間を利用して、従業員の顔と名前を覚える。
しかし、社員が10000人もいればその分、出入りも激しい。
女性の場合だと妊娠や出産や育児、その他の理由では定年に達したからであるとか、親の介護や自身の病気療養などで辞めることもある。
だから、せっかく覚えても、また新しい人を入れて、さらにその人の名前を覚えなくてはならない。
これが結構に大変なのだ。
──清掃員の彼は高齢でもう辞めたのか。受け付けの彼女は寿退社か…めでたいことだな
辞めた従業員の名前と顔を確認しつつ、今度は新しく入った従業員の名前と顔のチェックを始めた。
──若いのが結構入ったな
しかも、大半が名門大学出のアルファだ。
どんな活躍を見せてくれるのかと楽しみな反面、こういった若者はほかにいい職場を見つけたらサッサとそちらに行ってしまう傾向がある。
そうでなくても時折、根拠のない選民意識で周囲に対して居丈高に振る舞い、トラブルを起こす者も多い。
それも、処理するのになかなか手こずるタイプのトラブルである。
──さて、どうなることやら…
この若者たちとの今後を考えながら、総治郎はデータチェックを続けた。
今日の仕事は19時半に完了し、総治郎は帰り支度を始めて自室を出ると、廊下に出た。
定時は18時で、なるだけ残業は控えるように言ってあるから、社員の声や姿はほとんど見当たらない。
──さて、帰るか
これから、尋常ならざる話し合いをしなくてはならない。
直生の意中の相手はどんな人なのだろう。
やはり、アルファかベータの若い男だろうか。
それとも、アルファの女性だろうか。
アルファの女性というのは、人によっては並の男よりたくましく、頼りがいがある者も多い。
総治郎自身、もし自分がオメガかベータの女性であったなら心惹かれただろう、と思わせるアルファの女性に何度も出くわした。
それこそ、自分のような中年男が霞んでしまうくらいの。
──あの辺りで出会える人なら、たぶん飲食店で働く人とか、ネット回線や化粧品のセールスマンとかもあるかもな
「あ、会長!」
直生の意中の相手はどんな者かと想像しながら廊下を歩いていると、誰かに声をかけられた。
営業部の部長の辰巳 だ。
辰巳の後ろには、彼の部下が3人いる。
「お疲れ様です!」
辰巳が深々とお辞儀をした。
同時に、ほかの3人も頭を下げる。
そのうちの1人は若手の社員で、頭を下げるのが一瞬遅かった。
それを咎めているのか、彼の隣に立っていた営業部所属の中堅社員志積 が、その若手の肩をぴしゃりと叩いたのを、総治郎は見逃さなかった。
確か彼も営業部の所属で、名前は新見 といったはずだ。
先ほど見た人事部のデータに、彼の名前と顔写真が載っていたのを思い出した。
「ああ、辰巳くんに、晴海 さんと志積くん。あと、新見くんだったね?こんな遅くまで、よく頑張ってくれて、ありがとう」
総治郎も彼らに倣って礼をした。
自分の名前を呼ばれたことに、新見は驚いたようで、小さな声で「え…」と漏らした。
「いえ、会長こそ…お疲れ様です」
辰巳が気づかわしげに挨拶する。
彼はいつもこうだ。
総治郎の顔を見ると、異常なほどにかしこまる。
そのたびに、総治郎はさて、どうしたものかと思ってしまう。
あまりに無礼な態度を取られるのは腹立たしいものだけれど、過剰に下手に出られるのも、それはそれで慣れない。
我ながら、難儀な性格をしているなと思う。
「お久しぶりです、会長。結婚式以来ですね。奥様はお元気ですか?」
客からの問い合わせ担当係の主任を務める晴海が、にっこり笑って尋ねてきた。
直生のことを言われて、総治郎はドキリとした。
常に外部からの客を相手に仕事していて、人一倍気遣いのできる彼女のことだから、悪意だとかそういったものではなく、単なる疑問として聞いたのだろう。
今の総治郎にとっては、こういう悪意ない質問が何気に厄介なのだ。
「あ、ああ、元気だとも」
平静を装ってみせたものの、思わず声が上擦ってしまった。
それを察したのか、晴海はもうそれ以上何も聞いてこなかった。
「それは、よかったです」
辰巳が代わりに返事をした。
「その妻が待ってるから、失礼するよ」
総治郎は逃げるようにして、その場から立ち去った。
「はい、お疲れ様です」
総治郎の背後で、辰巳がまた深々と頭を下げる。
──会長、奥様と上手くいってないのかしら…
去っていく広い背中を見送りながら、晴海はついつい余計な心配をしてしまった。
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