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胸騒ぎの朝

どこかから、チュンチュンとスズメの鳴く声がして、カーテンの隙間からは朝日が差し込む、 現在、朝7時半。 総治郎は、かばっと勢いよく我が身を起こした。 「おはようございます」 少し向こうから、直生の声が聞こえた。 いつものように、総治郎よりかなり早く起きてきたらしい。 部屋のドアから半身を出して、こちらの様子を伺っている。 「ああ、おはよう…」 ベッドから下りて立ち上がると、自分が上半身裸でスラックスのみの姿であることに気がついた。 同時に昨夜のことが思い出されて、総治郎は背中に冷たい汗が伝っていくのを感じた。 ──夢じゃなかった… バカバカしい話ではあるけれど、総治郎はさっきまで「ひょっとして昨夜のあれは夢だったのではないか」と期待していたのだ。 その期待は、ものの見事に裏切られたわけだが。 何せ、ここは総治郎の部屋ではない。 総治郎の部屋なら、壁いっぱいに好きな画家の絵が飾られているはずだ。 さらには、趣味で買った舞台役者の写真集や演劇雑誌が入った背の高い本棚、演劇や映画のDVDを収納しているラック、そのDVDを視聴するために設置した80インチもの液晶テレビ。 総治郎の部屋は、それらひとつひとつが存在を主張して、全体的にどこか騒がしい感じがする。 対して、この部屋はシンプルといえば聞こえはいいが、言ってしまえば殺風景だ。 簡素なカーテンにベッド、部屋の隅にあるハンガーラックには10着前後の服がかかっている。 それ以外には、本当に何もない。 生活感が弱過ぎて、直生は本当にここで寝起きしていたのかと疑いたくなるほどだ。 「まだお休みになりますか?」 いつもように、直生が尋ねてくる。 「いや、もう起きるよ」 ──予備のスーツに着替えるか… 昨日の大暴れのせいで、スラックスにシワが寄って、ぐちゃぐちゃになってしまっている。 ジャケットとワイシャツを片付けてしまおうと探してみるが、見つからない。 「あれ…」 「いかがなさいました?」 キョロキョロと部屋中を見回す総治郎を不思議に思ったのだろう。 直生が訝しげな視線をこちらに向けてきた。 「ジャケットとワイシャツ、どこにやったかと思ってな…」 「ああ、それなら。アイロンをかけてクローゼットに入れました。お出ししましょうか?」 言って直生が、ウォークインクローゼットのある部屋の方へ顔を向けた。 「いや、新しいやつを出すよ。アレはもうそろそろクリーニングに出しておいた方がいい思うから」 「私がクリーニングに出しておきましょうか?」 「あー…それぐらいは自分でやるよ。ちょっと、着替えてくる」 言うと総治郎は、ドアのそばに立つ直生の脇を通り抜けて、自室に向かった。 予備のスーツは、自室のクローゼットにかかっているのだ。 ──どうしたもんかな… 予備のスーツに着替えながら、総治郎はあれそれ思案した。 直生と関係を持ってしまったことも恐ろしいが、何より理解しがたいのは、昨夜のことをまるでなかったことのように振る舞う直生の態度であった。 あれはいったい、どういう了見なのだろう。 「総治郎さん」 着替えている最中、直生が呼びかけてきた。 自分の部屋に引っ込んで休んでいるものと思っていたから、総治郎はドキリとした。 「なんだ?」 総治郎は平静を装って返事した。 「お食事の用意をしましたので、召し上がってください」 ──え? 初めて言われた言葉だった。 今までにも、食事はどうするか聞かれたことはある。 そのたびに、総治郎が「外で食べてくる」とか「必要ない」とか答えて、直生が引き下がって話は終わる。 今までそうしてきたのに、今日に限ってどうして「召し上がってください」なんて言ってきたのか。 よく見ると、直生はエプロンをしていた。 肩紐やポケットがフリルで縁取られた、可愛らしいデザインのボルドーのエプロンだ。 きっと、総治郎に渡されたクレジットカードで買った数少ない持ち物なのだろう。 「……わかった」 用意してくれたものを食べないのも気が引けるし、うまい逃げ口上も思いつかなかった総治郎は、仕方なくで直生の申し出に了承した。 予備のスーツに着替え終わると、直生について行くような形でリビングに向かう。 総治郎は戸惑ってばかりなのに、どうしたわけか、自分に背中を向けて歩く直生の足取りは軽やかだ。 そのせいだろうか、直生の腰から下がったエプロンの紐が、静かに揺れる。 「そこに座ってください、コーヒーお出ししますね」 直生がキッチンに引っ込むと、ヤカンをコンロに置く音やコーヒー瓶を取り出す音、カップをソーサーに置く音やコーヒードリッパーをセットする音が聞こえてきた。 ──大忙しだな… 家事代行の中野とは勝手知ってる仲であるから、何の気なしにコーヒーを淹れるよう頼んでいた。 しかし直生の様子を見て改めて思うと、それがかなり手間を要することに気がついた。 ──今度から、コーヒーは自分で淹れよう ダイニングテーブルの上には、トーストにバゲット。 そのそばにはオレンジマーマレードにイチゴのジャム、マーガリンにピーナッツバター。 そのほかにはオニオンスープに温野菜のサラダ。 サラダが乗った皿のそばには、マヨネーズにオーロラソース、ごまドレッシングと青紫蘇のドレッシング。 これらすべて、わざわざ直生が用意してくれたのだろう。 「ああ…ありがとう」 ゆっくりイスを引いてそこに座ると、そばに置いてあったスプーンを握り、オニオンスープを口にした。 香ばしいコンソメの風味が口いっぱいに広がって、本当に美味い。 その美味しさから、思わず掻き込むようにして貪ったため、軽く咽せてしまった。 「大丈夫ですか?コーヒーをどうぞ。お口に合わなかったり食べきれなかったら、残しても構いませんからね」 直生はコーヒーが入ったカップを、そっと総治郎の前に置いてくれた。 「ああ、すまないな」 カップを手に取ると、コーヒーをゆっくりと口に入れる。 ほどよい苦味と甘さが舌から伝わり、体がほんのり温まる。 「あの、今日は、遅くなりますか?」 直生がおもむろに向かいのイスに座ると、バゲットを1枚取った。 「いや、今日も早く帰るよ」 ──帰ったら、昨日のことを聞いてみる必要があるな… トーストにオレンジマーマレードを塗る直生を見つめながら、総治郎は昨夜の直生の心情を考えた。 同時に、ちょっとだけ気まずくなった。 何せ、昨夜の直生の様子は異常だった。 なんだってあんな格好をして総治郎に迫ってきたのか。 それをこのタイミングで聞くのは、流石にはばかられた。 今の直生は至って普通というのか、特に異常が見られないから、なおさらだ。 ──心の準備ができたら、ちょっと話し合おう そうして落ち着きを取り戻したのも束の間。 向かいに座る直生の首筋に視線を落とした瞬間、総治郎は肝が冷えた。

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