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煩悶は続く
直生の首筋に、くっきりと歯形がついていた。
間違いない。
あれは、昨夜の総治郎がつけたものだ。
なんとか落ち着きを取り戻して、コーヒーを啜る。
しかし何故だろうか、さっきまで美味しかったコーヒーが、味気ない白湯に変わったような心地がした。
「最近、お仕事はどうですか?」
「え…」
コーヒーカップを片手に、直生が尋ねてきた。
これも初めてのことだ。
直生は自分の仕事のことになど、まるで興味がないと思っていたから、総治郎にとっては意外な質問だった。
「ああ…順調だよ」
「それなら良かったです」
気のない返事を聞いた直生が、コーヒーをゆっくり啜った。
「どうしてそんなことを?」
総治郎は温野菜のサラダが乗った皿を手にとって、何もつけないで一口食べてみた。
ほどよい塩味がきいて美味いが、今はそれどころではない。
「総治郎さん、連日連夜遅くに帰ってきてるし、何か疲れているような気がしたので…」
総治郎に倣うように、直生も自分の分のサラダを取って食べた。
もっとも、直生はオーロラソースをほんの少し混ぜて食べたが。
「なるほどな…」
思わぬ気遣いに戸惑いを覚えつつ、食は進んでいく。
食べないと間がもたないし、早く食べ終わってこの場をやり過ごしたかったのだ。
「総治郎さん、いってらっしゃい」
朝食を終えると、直生はまたいつものように総治郎を見送った。
「ああ、行ってくるよ」
忙しない様子で靴を履き、急ぎ足で玄関を出た。
車庫まで向かったとき、直生が窓から手を振っているのが見えた。
その顔がまた異常なまで晴れやかなのが、総治郎をより動揺させた。
無理をして笑顔を作り、手をふり返すと、総治郎は逃げるようにしてセダンを発進させた。
「……ということがあったんだが」
「知らんわ、そんなもん!」
事の経緯を大成に話したところ、結構に怒った様子で突っぱねられてしまった。
「ていうか、なんでオレ?お前、ほかに相談できる友達ひとりもいないの?」
「下半身がらみのことはお前が一番相談しやすい。お前はそのへん詳しいだろ?」
「んだとテメエ!」
失礼な言葉の応酬がしばらく続いて、大成は自分の見解を述べた。
「うーん、実家の親から「既成事実作れ」みたいなこと言われてるんじゃねえのか?向こうの家、お前の金に頼る気マンマンで息子をお前に献上したんだろ?」
大成は面倒くさそうな、それでいてどこか真剣な語調で問いかけてきた。
「なるほど、あり得るな」
「あり得るのかよ」
「いや、ないかもしれない」
考え直してから総治郎は返答した。
「どっちだよ⁈」
あまりに宙ぶらりんな総治郎の態度に、大成はイライラしたようだ。
「よくよく考えてみたら、既成事実なんか作る理由がない。向こうの家の財政再建はもう完了しつつあるからな。これを機会に、離婚を切り出してくれるならまだ理解できるが…」
「いやー、わからんぞ。こうなったら向こうの財産全部乗っ取ろう!みたいなこと考えてるかも」
失礼かつ物騒極まりない発想であった。
「そんな…」
あの育ちの良さそうな一家から、そんな腹黒い思いつきが出てくるとは考えにくいが。
「まあでも、カード渡しっぱなしは良くないと思うぜ。何に使ってるかは確認した方がいいんじゃないか?」
「うん、そうだな…」
それを言われると弱い。
総治郎は反論できなかった。
「よーく調べとけよ。実はお前の財産乗っ取るのが目的で密かに殺害計画立ててる、なんてことも考えられるしな。トリカブトとか青酸カリとか出てくるかも…」
「ミステリー小説の読み過ぎだ、バカ」
さすがに、これは考え過ぎではないかと思った。
いや、できることならそう思いたかった。
朝っぱらからの電話にイライラした大成にどやされた後、総治郎はジムで時間をつぶした。
──もう帰るか…
運動を一通り終えると、総治郎はロッカールームに引っ込んで、帰り支度を始めた。
現在午後15時半。
帰るにはあまりにも早すぎるが、昨夜のことや大成の言っていたことが、どうしても気になる。
不審がられるだろうが、今はそれどころではないし、「たまにこれぐらい早く帰ることもあるんだ」の一言でカタはつくだろう。
──この請求の多さについても、いろいろ聞きたいしな
総治郎は、スマートフォンの画面に写ったクレジットカードの明細を眺めた。
大成の言う通りに、何に金を使っているのか調べたのだ。
駐車場からセダンを発車させ、帰宅を急いだ。
こんなに早くに帰ったのは、いつぶりだろうか。
そんな経緯もあってか、普段ならあり得ないことだが、自宅まであと100メートルというときに10人前後の小学生の群れに出くわした。
おそらく、下校途中なのだろう。
黒、青、赤、ピンク…さまざまな色のランドセルを背負った背の低い影が、日光を浴びて地面に落ちる。
注意散漫で無用心な彼らは、セダンの脇スレスレを平然と歩いて、総治郎をやきもきさせた。
それこそ、その群れの中でも最年少と思わしき1、2年生くらいの男の子が急に眼前に出てきて、あやうく衝突しそうになった。
あわててブレーキを踏んだおかげで事故には至らなかったが、総治郎は異常な量の汗をかいた。
これほど焦りを感じたことはない。
そばにいた4、5年生くらいの女の子が男の子に駆け寄り、彼の肩を掴んで注意する姿が、フロントガラス越しに確認できた。
女の子は男の子を道路脇に誘導すると、窓越しに総治郎に会釈した。
総治郎も会釈すると、セダンを発車させる。
──あんな生き物と四六時中いっしょにいる親は大変だな、頭が下がる…
親という存在の偉大さと大変さを考えているうちに、帰路に着いた。
車庫にセダンを停めて、玄関ドアまで向かう。
そのドアの前で、総治郎は深呼吸した。
昨夜のアレは何だったのか、何に金を使ったのか。
込み入った話をアレコレしないといけない。
こんなに緊張したのは、何年ぶりだろうか。
ドアノブに手をかけて、ゆっくりドアを開ける。
靴を脱いで框を跨いだと同時に、聞き慣れた足音が響いてきた。
予想外の時間帯に帰ったから、焦ったのだろうか。
どことなく、足音が忙しない気がする。
「おかえりなさい、総治郎さん。今日はホントに早かったんですね」
いつもの変わらない様子の直生が、いつものように出迎えてくれた。
「え、ああ…そうだ、たまにこれぐらいの時間に終わることもあるんだ」
「そうですか。お風呂入られますか?お食事召し上がります?」
直生がいかにも夫を出迎えた妻らしいことを言う。
よくよく考えてみると、「ご飯にする?お風呂にする?」という夫婦の定番の会話など、今日が初めてであった。
今の今まで、泊まりがけの仕事と偽って家を出て、「食事も風呂も済ませてる」と言って帰宅していたからだ。
「いや、あー、ちょっと話したいことがあるんだ。リビングに行こう」
「…わかりました」
少し間を置いて、直生は答えた。
この間は、いったいどんな意味を持つのだろうか。
それも後で聞こうと、総治郎はリビングに急いだ。
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