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初めての電車
ついこないだまでは、直生を別世界の人間みたく思っていたけれど、今は違う。
基本的に真面目だけど、世間知らずで知りたがりやで、少し軽薄。
それが若い頃の総治郎だったのだけど、直生はそんな若い頃の自分と、さほども変わらない。
ちょっとずつ世間を知って知恵をつけて、今の自分があるのだ。
そんな自分に、世間のことを教えてくれる親切な人もいた。
ならば、今度は自分がその人たちと同じように接してやればいいだけのこと。
何も、難しく考えることはないのだ。
「そうでしょうか?」
直生がホッとしたような、それでいてまだ不安が残ったような顔で総治郎を見つめた。
「ああ。それと、これの実現は不可能だが、擬似的にやることはできる」
ここで総治郎はあることを思い出した。
「え?」
翌日、総治郎と直生は、歩いて駅まで向かった。
「直生、まずは路線図を見ろ。駅の名前と、切符の値段が書いてある。わかるか?」
駅に着くと、総治郎は頭上にある路線図を指差した。
「ろせんず…」
直生は路線図を見上げて、狼狽えていた。
無理もないことだ。
総治郎の住む地域は、比較的都心の方にあり、それだけに走っている路線や駅数も生半可ではない。
それゆえ、路線図もいっとう複雑になるから、直生がおろおろするのも道理であろう。
「えっと、今日行くのはA駅だから、ほら、あそこに「A」って書いてるな?その下に数字があるだろう?あれが金額だ」
「あ、はい」
「それで、切符…電車に乗るために必要なんだ。それを買う。これを使うんだ」
総治郎は直生を切符売り場まで誘導すると、切符の買い方をレクチャーした。
初めて見る切符販売機に、直生は四苦八苦しながら、なんとか2人分の切符を買うことができた。
「サラリーマンとか学生さんは、毎日こんなことしてるんですね」
改札を抜け出て、無事に乗り場までたどり着いた後、直生は深いため息をついた。
「まあ、慣れればどうということはない。きみも、ちょっとずつ慣れていこうな」
困ったような顔をする直生を励まそうと、総治郎は華奢で頼りない背中を撫でさすった。
そうこうしているうちに電車がやってきて、ガタガタ音を立てながら、ドアが開いた。
「ほら、乗ろう」
総治郎は直生の手を引いて、ドアまで近づいていった。
直生がおずおずと車内に足を踏み入れて、総治郎がそれに続く。
「けっこう混んでるんですね」
空いた席に座るなり、直生はキョロキョロと視線をあちこちに泳がせた。
「これでも空いてるほうだぞ」
言いながら総治郎が、直生の隣に座る。
「そうなんですか?」
「ああ、ラッシュ時だと、すし詰めになって身動きも取れなくなる」
「らっしゅ?」
「みんながみんな出勤する時間帯とか、みんながみんな家に帰る時間帯だ。帰宅ラッシュとか、通勤ラッシュとかいう言い回しをするな」
「なるほど…」
総治郎の話に相槌を打ちながら、直生は車内を見回し続けていた。
目的地までは5駅ほど。
時間にすると約20分くらい。
その間、直生はずっとソワソワしていた。
そのあまりの落ち着きのなさを不審に思ったのだろうか。
そばにいた女性が、怪しむような視線をこちらに向けてきた。
「ここに違いないな」
総治郎はスマートフォンのマップに記された位置と、目の前の建物を見比べた。
「キレイなところですね」
直生が目の前の建物を見上げて呟いた。
実際、レンガ造りの壁に白いアンティークデザインのドア、三角の赤い屋根、洒落た出窓が美しい、一見すると新築の洋館みたく見える立派な建物である。
「これ、ラブホテルだよ」
「ら…?」
総治郎が説明すると、直生は首を傾げた。
なんだかんだ育ちのいい直生のことだ。
こんな下卑た建築物、行ったことがないどころか、目に入れるのだって初めてなのではないか。
「そういうことをするためのホテルだ」
「そんなのあるんですね」
総治郎の大雑把な説明を聞いた直生は、感心したような顔をして、洋館風のホテルをしげしげ眺めた。
「早く入ろう。いつまでもこんなところに突っ立ってたら、目立つからな」
人の目が気になった総治郎は、直生を急かすように早歩きでホテルに入っていった。
それこそ、その様子を何人かの通行人が総治郎を訝しげに見つめてきた。
やはり、50歳の中年男が、少年と見違えるくらいに歳若い男と連れ立ってホテルに入っていくというのは、よからぬ想像をかき立ててしまうものなのだろう。
平日の昼間だから、なおさらだ。
「すごいですねえ、ここ」
部屋に入るなり、直生は感嘆の声をあげた。
総治郎たちが入ったのは、電車内を模した部屋だった。
車内だけでなく、ご丁寧に駅のホームまで再現されていて、壁には架空の駅名が印字された看板がかかっている。
その真下には、いかにも駅で使われているような、業務用の青いプラスチック製ベンチ。
そのベンチと向かい合うようにして、横開きの電車のドアが設置されている。
横開きのドアには「ドアにご注意」のマークが貼られていて、これを開けて中に入ってみると、吊り革がぶら下がったベルベット張りの座席、網棚、「優先座席」の表示が貼られた窓に出迎えられる。
なお、決してこの座席で寝るわけではない。
こことは別にきちんとしたベッドルームがあり、寝るときはそこを使うのだ。
要するにここは「そういうプレイ用」の部屋というわけだ。
もっとも、そういうプレイ以外にも用途はあるようだが。
「ここ、動画で見たのと同じとこです!」
直生が大はしゃぎしながら、座席に座った。
「ああ、なるほど。ここで撮影してたんだな」
総治郎は直生の隣に座って車内、いや、正確には車内を模した部屋を見渡した。
やはりホテルだけあってか室内はチリひとつ落ちておらず、中吊り広告なんかも無いし、ほかの乗客もいないから、少々無機質に感じられる。
「ねえ、総治郎さん。早くシましょう?」
直生が肩に寄りかかってきて、上目遣いに目を合わせてきた。
こんな手口を、いったいどこで覚えてきたのだろう。
無意識にやっているのだろうか。
「急かすなよ」
総治郎は困惑してしまった。
なんだか、日を追うごとに直生が大胆になっている気がする。
結婚当初のあのひかえめな態度は何だったのだろう。
ひょっとして、これが本性だったりするのだろうか。
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