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帰宅してから
「今日はありがとうございます。あのお店、ホントに美味しかったです、総治郎さん」
総治郎の部屋のソファに2人してなだれ込むようにして座ると、直生は体を寄せてきた。
「そりゃよかった」
「子どもが生まれたら、家族で行きましょうね!」
「そうだな」
総治郎はまだ見ぬ我が子と直生、そして自分があの店で食事しているところを想像した。
案外、容易に想像できてしまえる自分に驚く。
少し前までは、自分に子どもが生まれることさえも想像できなかったのに。
「お風呂に入りましょう。けっこう汗かいちゃったし」
「また風呂でするのか?」
「やだあ、総治郎さんのエッチ!さすがにもうしませんよお!!」
直生がうふふと楽しそうに笑った。
お見合いしたときは、こんな冗談を飛ばし合うなんて、考えも及ばなかった。
それこそ、一緒に風呂に入ることも考えられなかった。
直生と連れ立って風呂場に移動しながら、総治郎は初めて会ったときのことを思い返していた。
──酷い臭いだな
脱衣所で服を脱いだとき、総治郎は自分の着ていたシャツを鼻につけてみた。
すると、予想通りの悪臭が鼻をついた。
自分の体臭が染み込んでいるのに加えて、直生を抱き続けたせいで大量の汗を吸ったからだろう。
その体臭が、自分が若い頃に嗅いだ父親の体臭とまったく同じなことに気づいて、総治郎はなんともいえない気持ちになった。
自分はもう完全にオジサンだという感覚は常々あった。
しかし、それを突きつけられると、これまた複雑な気持ちになる。
こんな体臭を放つ自分に抱かれている間、直生は何を思っているのだろう。
そもそも、この臭いは家中のそこここに溢れている。
直生は何も言ってこないが、やはりどうにも気になる。
──体臭を消すボディソープとかがあると聞いたから、それを使おうかな…
「総治郎さん、何してるんですか?」
すでに生まれたままの姿になった直生が、珍妙な行動を取る総治郎を、不思議そうな顔で見てくる。
「汗を大量に吸ったシャツとか靴下って、臭いが気になって、つい嗅いだりしないか?」
なんて言っても、育ちの良い直生はそんなことしないか、と総治郎は思った。
「ああ、ありますね、それ」
──あるのか……
意外な反応に、総治郎は苦笑いを浮かべた。
「なんだか、臭いが強ければ強いほどクセになりますよね、アレ」
「そうだな…」
なんと返せばよいかわからないまま、総治郎は直生と連れ立ってバスルームに入った。
「総治郎さん、私の背中洗ってください」
ボディスポンジを片手に、直生がおねだりしてきた。
直生は最近、おねだりが多くなった。
何にも言ってこないよりはずっとマシなのだけど、総治郎はときどき困ってしまう。
他人の背中を洗うなんて、何年ぶりだろうか。
遠い昔を思い出しながら、総治郎はボディスポンジを受け取った。
「これぐらいでいいか?」
バスチェアに座った直生の背中を優しく擦りながら、総治郎は尋ねた。
「はい、すごく気持ちいいです」
直生はくすぐったそうに、体をわずかによじった。
「総治郎さん、次は私がやりますね!」
ひととおり体を洗うと、直生が手を差し出した。
直生はボディスポンジを片手に持つと、総治郎をバスチェアに座らせて、背後に回った。
「力加減いかがですか?」
直生がボディソープを浸したスポンジを、背中のうえで上下左右に動かす。
「ちょうどいいよ。ありがとう」
泣いた子をあやすような優しい手つきに、総治郎はすっかりリラックスしていた。
思えば、誰かにこうされたことも何年ぶりのことであろうか。
「ねえ、スポンジじゃなくて胸にボディソープつけて背中洗いましょうか?動画でそういうの見たんです」
直生がクスクス笑う。
「きみはそうやって要らんことばかり覚えて…」
直生が言っているのは、アダルト動画なんかでよく見る「ボディ洗い」とかいうヤツのことだろう。
悲しいかな、すでに50歳とはいえ総治郎も男なので、1回ぐらいは体験してみたいという気持ちはある。
そうか、じゃあやってみてくれ。
そんな言葉が、うっかり口から出そうになった。
アレを現実でやってもらうのは、さすがにちょっと恥ずかしいし抵抗があるので、総治郎はグッと唇を噛み締めて、うっかり口が滑らないように堪えた。
「……もう充分だ、そろそろ流そう。きみは先に湯船に浸かりなさい」
総治郎はなんとか話題を逸らした。
「はあい」
教師から軽い注意を受けた学生みたいな返事をすると、直生は言われた通りにバスタブに入った。
直生の動きに合わせて、バスタブの水面がゆらゆら揺れる。
「ねえ、ここのバスタブ、広くていいですね。うちのは狭かったんですよ」
体を洗う総治郎を見つめながら、直生が微笑む。
「そうか?というか、意外だな。あんな大きな家だから、風呂も広くて大きいものだと思ってた」
総治郎が体をついた泡を流しながら答える。
「うーん、大きな家っていっても、ほとんどはお客様用と従業員用だから、私たち家族の住居スペースは狭いんですよ。だからお風呂も狭くて、だいたいは家族で順番にひとりずつ入ってたんです」
「なるほど」
花比良家は大きな家で優雅に暮らしているイメージがあったので、意外だった。
思えば、結婚してからというもの、花比良家に挨拶に行っていない。
これからのことを考えると、一度くらい挨拶すべきであろう。
総治郎は頭を洗いながら、子どもができた際の挨拶を考えた。
「それでも、お父さまとお母さまは一緒に入りたがるんですよ。大人ふたりが同時に入るもんだから、湯船がバーっと出ちゃうんです。笑っちゃうでしょ、いい歳して」
口ではそう言うが、直生は何やら嬉しそうだ。
なんだかんだ言っても、両親が大好きなのだろう。
「夫婦仲が良くて、いいことじゃないか」
「まあ、そうですよね。私も弟が小さいときは一緒に入ってました。でも、弟が中学校上がったら、ひとりで入るようになっちゃいましたね。拒否されたときは、ちょっと寂しかったなあ」
直生が懐かしげに語る。
そういえば直生には弟がいた。
結婚式以来、一度も会っていないし、この弟にも挨拶しておくべきであろう。
総治郎は髪についた泡を流しながら、挨拶の言葉を考えていた。
「ほら、総治郎さん、入ってください」
直生がバスタブの片側に寄って、隙間を作った。
「ああ」
促されるままに総治郎がバスタブに入ると、中に張られていたお湯の水位が上がっていき、あっという間に溢れた。
こんなやりとりにも、もうすっかり慣れてしまった。
「ここなら、子どもも一緒に入れそうですよね」
「まあ、子どもが小さいうちならな」
言うと総治郎は顔についた水滴を拭った。
最近、顔を洗っても洗ってもベタつきが止まらない。
暑い日なんか、おしぼりで顔を拭くこともしょっちゅうだ。
「子どもって何歳くらいまで親御さんと寝たりお風呂に入ってたりするんでしょう?」
「きみは何歳くらいまで親と一緒だったんだ?」
向かいあって湯船に浸かりながら、2人は話し合った。
「中学3年生くらいまで入ってましたよ」
「結構大きくなってからも入ってたんだな」
「総治郎さんは?」
「えーと、たしか俺は、10歳を越える前にはすでにひとりで入ってたな。早いめの反抗期が来たから」
総治郎は子どもの頃のことを思い返してみた。
もう40年近く前のことだが、案外鮮明に思い出せる自分に驚く。
やはり歳を取ると昔のことばかり思い出す、というのは本当らしい。
「10歳くらいの男の子って、髪の毛ぐちゃぐちゃのまま外に出る子がいるでしょう?アレって、反抗期でお母さんに髪を梳かされるのを嫌がるから、あんなふうになるんですって。中野さんから聞きました」
「ああ、そういえば中野さんには息子がいたな」
おそらく中野は、自身の経験則からそれを述べているのだろう。
実際問題、総治郎も子どもの頃には経験したことだ。
いかにも子どもらしい反抗心から、「自分でやるから」と言ってブラシを持つのだけど、後頭部までは手が行き渡らないから、寝ぐせがついたまま学校に通ったものだった。
それは同級生も同じだった。
小学4年生くらいにもなると、みんなして髪がぐしゃぐしゃのまま登校していた。
今となっては、髪の量がだいぶ減ってしまって、寝癖なんてほとんどつきようもないのだけど。
──懐かしいな
同時に総治郎は、あることを思い出した。
小学校中学年のときの参観日の、授業が始まる少し前。
今の総治郎より少し歳上くらいの男性が教室に入ってきた。
おそらく、保護者の誰かだろう。
そのときに総治郎はうっかり「ねえ、おじさんは誰のおじいちゃん?」などと聞いてしまったのだ。
まだ子どもだったとはいえ、かなり失礼な問いかけである。
何を隠そう、その人は「おじいちゃん」ではなかった。
彼はクラスメイトの女の子の父親だったのだ。
総治郎はその子とはよく話していたものの、親の顔はまったく知らなかった。
彼女が親が歳を取ってからの子どもだというのも、ここで初めて知った。
クラスメイトの父親は、困ったような顔をすると、クラスメイトの名前を言った。
同時に、自分は祖父ではなく父親だとも言った。
当時の総治郎にとっては、これは取るに足らないやりとりだったが、クラスメイトにはかなりショックなことらしかった。
そのあと、廊下でクラスメイトが父親に「もう帰って」「2度と来ないで」と詰め寄っているのを見かけた。
彼女は、自分の父親がほかの子の父親よりもはるかに歳上であることを気にしていたらしい。
このときの総治郎の言葉で、それにますます拍車がかかり、結果、彼女の父親は悲しそうな顔をして、とぼとぼと覇気のない足取りで帰っていった。
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