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第3話 最初の違和感

 いささか不安を孕んだスタートから、そろそろ一週間が経とうかというある昼下がり。たまたま休憩室の前を通りかかった将吾は、何やら不穏な空気に気づき、中を覗いた。 「っ……!」 「えっ、⁉︎」  自動販売機の前に、ただならぬ雰囲気の東堂と、唖然とした顔の見慣れぬ男性社員が立っている。他の社員は遠巻きに成り行きを伺っている様子で、どうもこの二人の間に何かあったようだった。  入口から顔を出している将吾に気づいた東堂が、顔を歪めたままずんずんこちらへ向かって歩いて来る。声をかけられることを期待して待っていた将吾の脇をすり抜け、東堂はそのまま廊下の奥へと消えてしまった。 「……」  将吾は呆気に取られ、無言で東堂の背中を見送った。しばらくその場に立ち尽くしてしまったが、なんだか後頭部に視線を感じて振り返ると、中にいた社員たちがこちらをチラチラと見ている。慌てて会釈しつつ、休憩室の中に足を踏み入れた。 「何か、あったんですか」  あっという間に将吾を囲んだ話好きの社員たちによると、事の経緯は次のようだった。  東堂が自動販売機で飲み物を買おうとしていて、財布を手から滑らせて落としてしまった。それを拾おうとしてよろけたところを、近くにいた男性社員が咄嗟に支えようとして東堂の腕を掴んだ。その途端、血相を変えた東堂が思い切り男性社員を突き飛ばしたのだという。 「そんな……俺、今あいつと組んで仕事してるんです。代わりに謝らせてください」  頭を下げようとした将吾を、突き飛ばされたという男性社員が慌てて止める。 「いいんです、俺も、知らなかったので」 「知らなかった?」  申し訳なさそうな表情に、思わず聞き返した。 「はい、東堂さんが出て行かれた後、ついさっき聞きました。東堂さん、男に触られるのがダメなんだって」 「ええ⁉︎」  場に不似合いな、素っ頓狂な声が出た。そんなの、初耳だ。まあ、将吾は東堂のそんな個人的なことを聞くような間柄でもないわけで、当然と言えば当然ではあった。  驚く将吾に、今度は輪の中にいた別の年配の女性社員が、話を引き取って喋り始める。 「そうなのよ。まあ触られるのが何でもだめっていうんじゃなくて、強く掴まれたりとか、そういうのがってことみたいだけど。この前本社に異動になったんじゃ、知らなかったわよね」  話を振られた男性社員が頷く。見ない顔だと思ったのも、異動になったばかりだと言われて納得がいった。  ——いや、その話は俺も知らなかったけど……。  そう思ったのが顔に出ていたのか、女性社員が将吾を見て付け加える。 「と言っても、一部の社員の間でしか知られてない話だから、小野くんが知らなくても不思議はないわよ。うーん、何年前だったかなあ……たぶん、三年前とかそのくらいじゃなかったかと思うんだけど。当時東堂くんが追ってた事件の関係で、ちょっとしたトラブルに遭ったらしくてね。それで東堂くんは男性に腕を掴まれるとか、要は……暴行を連想させるようなことをされるのがダメになっちゃったみたいなのよね」  最後の部分は内容が内容だけに、ややひそめた声で女性社員が言った。  ——そんなことが……。  三年前といえば、将吾がちょうど本社へ異動になった頃のことだ。そんなトラブルがあったとしても、異動してきたばかりの将吾の耳にまでは入ってこなくても仕方なかったかもしれない。ただ、そう言われて振り返ってみると、確かに異動になってすぐの頃は報道部全体が東堂を腫れ物扱いというか、刺激しないようにしていた空気があったように思う。今の話と考え合わせれば、納得がいく気がする。 「だから、もともと東堂くんはクールな子だったけど、あれ以来、なんか更に張り詰めた感じになっちゃって。あ、これ、絶対本人の前で言っちゃダメよ?」  言われなくても、とは思ったが、将吾は神妙な顔で頷いておいた。それよりも、今の話には少しだけ何か引っ掛かるような印象を受ける。  新聞記者というものは、警察ほどではないが危険と隣り合わせの業務も多い。だから、そういった目に遭うこともなくはないのだが、そんな人間らしく脆弱な部分があの東堂にあったというのが、なんだかひどくちぐはぐに感じられた。  それにしても、と脇道へ逸れかけた思考を元に戻し、将吾は思う。出来事そのものはデリケートなことではあるし、致し方ないとはいえ、あんな、突き飛ばすようなのはどうなのか。今回は目下の若手社員だったからまだ大事にならずに済んだだけで、相手によっては無用のトラブルになりかねない。  それを言うと、その場にいた社員たちは皆、苦笑いを浮かべた。 「まあ、それは東堂さんだから……」  東堂が謝るのを将吾は見たことがないし、話にも聞いたことがない。それは頑なに己の非を認めないからではなく、端からミスを犯さないからだった。その優秀さは報道部のみならず社全体に浸透しているらしく、こういう時でも「東堂だから」で片がついてしまう。  ——だからって、そんな振る舞いが許されていいことにはならないだろう。  その場はやがて解散になり、将吾はどうもすっきりしなかったが、仕方なく休憩室を後にする。  違和感の正体についてぼんやりと考えながら会議室の横を通りすぎようとした時、将吾の耳に言い争うような声が聞こえてきた。どうやら、会議室の中からのようだ。  言い争い自体は、さして驚くようなことではない。事件担当の連中は常に神経も張り詰めているし、睡眠時間を削って仕事をしている。何気ない意見の衝突が一気に激論に発展することもしばしばだ。将吾が立ち止まったのは、聞こえてきたのが東堂の声だったからだった。

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