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第8話 越えられない壁
低俗な言葉遣いが鼻について話の内容を掴み損ねそうになるが、三ツ藤は将吾たちが先ほどまで荻野と会っていたことを把握していた。それに気付いた将吾は唖然とする。
——なんでだ……? つけられていた? いや、そうだったらさすがに気づく。それに、どうしてこいつは荻野さんが俺たちに話した内容まで知っている……?
動揺する将吾とは対照的に、東堂は表情を崩さない。
「……そういうことか」
一瞬の間があって、東堂がため息とともにそう吐き出した。
「お前がただの偶然であそこに居合わせるわけがないとは思っていた。……お前は、そんなことにまで手を出していたのか」
最後の言葉に、わずかに感情の揺れを感じて、将吾は思わず東堂の方を見る。東堂は、哀れみとも落胆ともつかない表情で、目の前の男を見つめていた。三ツ藤がそんな東堂を鼻で笑う。
「いやいや、勘違いしてもらっちゃ困るな。俺はあの件についちゃ何も噛んでねえよ。ただ、あのババアは、俺のとこの社員でね」
まさかの事実だった。東堂も同じ心境だったと見え、固まったまま話の続きを待っている。
「お前があの件を追ってるのは記事で分かってたし、あのババアの性格からしていずれお前に接触するだろうとは思ってたからな」
「……それなら」
東堂が口を開いた。
「お前の狙いは何だ。俺たちに何をさせようとしてる」
東堂の目が、剣呑な光を帯びる。
この言葉で、ようやく将吾にも東堂の考えていることがわかってきた。
三ツ藤は、A学園の不正疑惑には関与していない。だから荻野が話したことが記事になろうがなるまいが、三ツ藤自身に直接の利害はない。けれど三ツ藤は、この情報の重みを知っている。自分たちが、喉から手が出るほど欲しかった、記事にしたかった情報であることを。この男は、それを材料に自分たちを強請ろうとしているのだ。
「俺〝たち〟、ってえのは若干語弊があるな。さっきお前はこいつは巻き込むな、って言ったじゃねえか。お望み通り、こいつは巻き込まないでおいてやるよ。元カレのよしみとして、な」
——元カレ? 今、元カレって言ったか⁇
聞いていれば、話の雲行きは急速に怪しくなってきている。
——この男が、東堂の元恋人……ってことか……?
言葉通りに解釈していいのか、はたまた単に東堂を煽るためだけの出まかせなのか、将吾には判断できなかった。
「お前の個人的な事情を挟むな。今の話には無関係だ」
東堂が吐き捨てるように言う。
そんな東堂の反応は想定内だったのか、三ツ藤はニヤついた顔のまま、こう口にした。
「それはどうかな? その元カレの〝元〟を外す気になったら、ババアの話したことを記事にしてもいい、と言ったら?」
「な……っ!」
東堂が、言葉を無くした。
怒り、戸惑い、蔑み、さまざまな感情がその目を、口元を駆け抜ける。
初めて見る、東堂の人間らしく、生々しい反応。将吾は何か、見てはいけないものを見たような、奇妙な後ろめたさを覚えた。三ツ藤の言う「元カレ」が、からかっているのではなく事実なのだろうことも、東堂の反応から確信に変わる。
——おいおい、こりゃとんだことになってきたぞ……。
仕事に私的な事柄を持ち込むのは、東堂が一番嫌っていることのはずだった。
激昂するあまり顔面蒼白になっている東堂を見て、将吾も怒りで腹の底がカッと熱くなる。
将吾はこの数週間、自分がこれまで東堂という人間のごく一面しか見ていなかったことを痛感していた。東堂が一体何を見て、どんなことを感じているのか、東堂から見える世界を知りたいと思うようになった。将吾にとって、東堂はすでに大切な仲間だ。もしできるなら、もっと踏み込んで話がしてみたいと思う。そんな相手がいいように愚弄され、傷つけられることに、憤りが抑えられない。同性の恋人がいたというところにはもっと衝撃を受けるべきなのかもしれないし、東堂の私的な過去を将吾は何も知らない。けれど、今はそんなことより、目の前で東堂がこんな扱いを受けていることが許せなかった。
荻野がリスクを承知で、名乗り出て話してくれたこと。
東堂がこのヤマにかける思い。
自分たちがどれだけの時間と労力を割いて、この事件を追いかけてきたか。
三ツ藤にとっては単なる記事の一つに過ぎなくとも、その裏にはこれだけの人の思い、努力がある。それら全てが、この男の、東堂に対する私的な欲望のもとに踏みにじられるのを黙って見ていなければならないというのは、どんなことよりも耐えがたかった。
「まだお前は、そんなことを……! もう全て終わったはずだろう! 俺に構うなと言ったはずだ!」
東堂が声を荒げる。
怒り、だけではない。その声は、どこかひどく傷ついているように聞こえた。
気のせいかもしれない。それでも将吾の怒りはここで頂点に達した。
——お前に、東堂の気持ちが分かるか! こいつがどんな思いでここまでやってきたか……!
将吾の中で、何かがぷちんと切れた。
「おい……! あんた、こいつの元カレだかなんだか知らねえが、こっちが大人しく聞いてりゃ、何脅迫じみたことを言ってるんだ? 東堂がどんな思いで、どれだけの努力と犠牲を払ってこの仕事をしてるか、あんたわかってんのか⁉︎」
一息にまくしたてて、将吾は肩で息をした。東堂が驚いたようにこちらを見ている。
三ツ藤は一瞬虚を突かれたような顔をした後、顔を顰めて吐き捨てるように言った。
「俺がこいつの仕事を分かってるかって? ハッ、俺はな、ずっとこいつの側で、一番近くでこいつを見てきたんだ。笑わせんなよ、兄ちゃん。お前なんかよりはるかに、俺はこいつのことを知ってんだよ。分かったら部外者は黙ってろ」
冷え冷えとした怒気に、本能的に後退りをしたくなる。いやらしい余裕の笑みの消えた顔に、初めて一瞬だけ三ツ藤の本心が覗いたような気がした。
将吾は、何も返せなかった。素性のわからない相手を迂闊に刺激するリスクももちろん頭を掠めたが、それより、自分の知らないかつての東堂を、ハッタリでなくおそらく事実として三ツ藤が知っているということ、それが将吾の勢いを地面に叩き落とした。知らない自分は、こちら側で見ているしかできない。二人との間に立ちはだかる壁を前に、将吾を襲うのは大きな無力感だった。
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