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第9話 東堂の傷
三ツ藤が再び東堂に向き直る。
「邪魔が入ったな。けどなあ、流星。そうやって言われて、ハイそうですか、って俺が言うとは、お前も思ってねえだろ?」
将吾のことなどなかったように三ツ藤はそう言うと、おもむろに立ち上がり、一歩、二歩と東堂に近寄った。
大柄な男から見下ろされる形になり、その威圧感に将吾まで気圧されそうになる。見る間に、東堂が体を硬くしたのが将吾にも分かった。不自然なほどに目を逸らし、手が白くなるほど硬く握りしめている。
「お前とああいう終わり方をしたのは、俺にとってかなり不本意だったんだよ。それをもう一度やり直すチャンスも与えねえで、俺に構うなはねえよなあ?」
声色は猫撫で声だが、明らかに選択の余地を与えていない。
「……触るなッ」
馴れ馴れしく肩に置かれた男の手を、東堂が反射的に振り払う。その光景に、いつかの休憩室で聞いた話が将吾の脳裏をよぎった。
——東堂さん、男に触られるのがダメなんだって。
もしかして、こいつが。そんな思いが浮かび上がりかけたが、今はそれどころではない。
東堂の示したあからさまな拒絶が癇に障ったのか、三ツ藤はやや苛立たしげに振り払われた腕を組んで仁王立ちした。
「まさかとは思うが、この場は適当なことを言ってうまいことずらかって、ぬけぬけと記事にしちまおうなんて思ってねえだろうな? もしそんなことをしてみろ、俺もそれなりの対応をさせてもらうぜ?」
不穏な物言いに、将吾も東堂も三ツ藤を見上げる。その顔に浮かんでいる暗い笑みに、背筋がゾッとした。
「そうだなあ、まああのババアの即刻解雇は当然として。ババアの話したことを、実名付きで学園の関係者に流すってのもいいな。かわいそうに、あのババアは二度とまともな仕事につけなくなるだろうなあ」
三ツ藤が次々と口にする〝それなりの対応〟の内容に、将吾は気分が悪くなってくる。
皮肉なことに、三ツ藤の挙げた内容から、一番近くで東堂を見てきたという言葉がただのハッタリではなく、この男は名実ともに東堂と深い関係にあったのだろうと将吾は納得せざるを得なかった。自分たちが関わったことで、相手の未来や生活がリスクに晒される。それこそ東堂が最も恐れ、避けていることだ。仕事仲間でさえ知っているのは限られた、近しい人間だけだろう。
そこまで分かった上で、一番相手を傷つけることを平気で行う。東堂へ向けられた男の執着は将吾の理解を超えており、もはや恐ろしかった。
「分かった……」
「え」
目を伏せた東堂の弱々しい声に、将吾が思わず声を上げる。
——まさか、こいつの要求を飲むつもりか……?
すると東堂は、将吾を制するように頭を振って、続けた。
「分かった。今日、聞いた話は、全て忘れる。記事にはしない」
「おい……!」
本気か、と続けようとしたが、顔を上げた東堂と視線が合った途端、言葉を飲み込んだ。その目を見てなお、その意志を問うのは愚かだった。
黙って立ち上がった東堂と将吾を見て、三ツ藤は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「ふん……痩せ我慢か? それじゃあ荻野のババアも浮かばれねえな? 大人しく俺んとこに来て、ババアの記事を書きゃあ、英京新聞の一人勝ちだ。それを、お前の個人的な事情で、無かったことにしていいのか?」
あからさまな三ツ藤の煽りに、東堂がピクッと反応する。だが、東堂は男を一瞥すると、そのまま背を向けて店の扉へ向かって歩き出した。将吾も慌ててそのあとを追いかける。
男が追ってくる気配はなかった。
店を出てからも無言で歩き続ける東堂の背中を見つめて歩きながら、将吾はずっと声をかけあぐねていた。
聞きたいことは山ほどある。だが、どの疑問も、そのまま東堂にぶつけていいものか、答えの出ないものばかりだった。
駅に着くと、東堂がようやく口を開いた。
「小野……」
将吾は妙に緊張して、何と返したらいいか分からず、口を開いたり閉じたりする。
「今日は、巻き込んですまなかった。俺の勝手な一存で、記事を握りつぶすことになったのも、何も言い訳はできない」
——謝って、る……あの完璧嫌味男が……。
本来なら、素直に謝る東堂なんて社内特ダネ級の一大ニュースだ。しかし、今はそれがこれっぽっちも嬉しくなかった。
「お前がこのことをキャップに報告するというなら、俺に止める権利はない。……だが、できれば、この件は俺に預からせてほしい」
東堂の声は、苦しそうだった。つとめて感情を排除し、冷静に振るまおうとしているが、聞いているこちらの胸が痛くなる。
ここで否と言えるほど、将吾は人でなしにはなれなかった。
会社の立場、社会的な意義、自分個人のキャリア、どの観点から見たって、今日の取材は記事にすべきだ。そのくらいは将吾にも分かる。その犠牲になるのがたかだか同僚一人のプライベートな人間関係ならば、天秤にかけてどちらを取るかは、明らかだろう。
けれど、最初から、将吾の中で答えは出ていた。
「分かった」
「お前……」
即答する将吾に、いいのか、と問うような目。自分で頼んでおいて、こちらが承諾するとは信じていなかったようなその表情に、将吾は少し呆れる。
——信用されてねえなあ……まあ、仕方ないか。
「お前のことだ、なんか考えてんだろ。俺はその判断を尊重する」
そう将吾が告げると、東堂は少し目を見開いて、それからまた視線を落とした。
少しの間、沈黙が降りる。あたりの喧騒が、二人の頭の上を通り抜けていく。
「……小野は」
考えた末に、決意したように、東堂がポツリと言った。
「俺が、気持ち悪くないのか」
「は?」
何を聞かれたのか一瞬飲み込めなくて、将吾はポカンとする。
「ッその、俺が、男と……付き合っていたと知って」
しまった。言いたくなかっただろうに、言わせてしまった。
将吾は焦って言葉を探す。
「そんなの、誰だって色々あるだろ」
いや、言いたいのはそんな陳腐な言葉じゃない。将吾は必死に考えた。
「お前は、お前だろ。そのくらいで別になんとも思わねえよ」
やっとのことで見つけた言葉に、東堂はほっとしたような、複雑な表情になった。
その顔が少し泣き出しそうに見えて、将吾はなぜかドキリとする。
——これでよかった、のかな……。
また連絡する。
東堂は絞り出すようにそう言って、人混みの中に消えていった。
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