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第10話 将吾の知らない過去

「おーう、こっちこっち」  将吾が店に入ると、すでに席に座っていた佐倉(さくら)が将吾を見つけて手を振る。 「お疲れー」  ガヤガヤと賑やかな居酒屋の店内をかき分けるようにして席にたどり着き、店員が渡してくれるおしぼりを受け取った。座るなり早速もらった熱いおしぼりで顔を拭く将吾を、佐倉がからかう。 「おいおい、お前もうそんなおっさん臭くなってんの? おしぼりで顔拭くとか、いつの昭和サラリーマンだよ」 「うっせーな、お前だってもうおっさんだろうがよ。気取ってんじゃねえよ」 「そんなんだから彼女できないんだよ〜」 「うるせー余計なお世話だ!」  こうして軽口を叩けるのは、佐倉が将吾の同期であり、同じ支局で下積みをした気の置けない仲間であるからだった。  佐倉は将吾より一年早く本社報道部へ配属されたが、性に合わなかったらしく異動願を出して二年前に情報編成本部に移っている。情報編成本部は比較的安定して休日が取れる部署であり、将吾が突発的に発生した休日にいきなり飲みに誘っても、いつも快く応じてくれる貴重な友人だった。 「最近どうよ、ってその顔はあんまうまくいってなさそうだな」  佐倉がメニューを手渡しながら、将吾の顔を見て眉を下げる。ふわふわの癖っ毛に丸メガネの童顔という、漫画に描けそうな容姿の同僚を見ながら、こいつも希望通りの部署に行けて、だいぶ顔に優しさが出てきたな、などと将吾は余計なことを思った。かつて報道部で共に戦っていた頃、いつも目の下に隈を作り、殺気立っていた佐倉を思うと、今目の前に座っている姿はまるで別人だ。 「ああ……お前も知ってるだろ、Aの件」  誰が聞いているか分からないので、少し声を落として将吾が言う。佐倉は将吾に向かって頷いた。 「ああ。難航してるんだろ。ていうか小野、東堂と組んでるんだって? 大丈夫なのか?」  最後の言葉は少し笑いを含んでいる。  将吾が来た翌年には佐倉が去っているので、二人が同じ報道部にいたのはたった一年なのだが、その一年で東堂と将吾の仲の悪さはすっかり部全体に知れ渡ってしまっていた。 「ああ、そのことなんだけど、ちょっとお前に聞きたくてさ」  将吾は手早く注文を済ませると、佐倉が振ってくれたのをこれ幸いと本題に入る。  実は、以前佐倉が東堂と組んで仕事をしたことがあると聞いた覚えがあった。今日はそれを確かめる意図もあって、佐倉を誘ったのだ。 「佐倉って、前に東堂と組んだことがあるって言ってなかったっけ」 「ああ、まあ、一回だけね」  なんだかいやに歯切れの悪い返事だ。  その反応をどう解釈していいものか、一瞬迷ったが、将吾は質問を続けた。 「それっていつ頃のことだ? ……もし、あまり突っ込んで聞かない方がいいような話なら、やめるけど」  ためらった後にそう付け加えると、佐倉は、いや、いいんだ、と顔の前で手を振る。 「別に口止めされてるとか、そういう類の話じゃない。ただ、なんていうのかな、俺があまりこういうゴシップじみた話をべらべら喋るのが好きじゃないってだけ」 「ゴシップ?」  話が見えなくて、佐倉の顔を見つめる。ちょうどそこへビールとお通しが運ばれてきたので、一旦話が中断された。運ばれてきたジョッキを、形だけ乾杯と掲げてぐいっと傾ける。 「え、あの話じゃないの? 東堂が、取材中に男に暴行受けてトラウマになった話」 「ぐふっ⁉︎」  佐倉の言葉に、将吾が見事にむせた。  確かに、東堂と三ツ藤との様子を見ていて、東堂の過去に何があったのか将吾が知りたくなったのは事実だ。佐倉が昔の東堂の様子を知っているなら、そこから何かヒントになるものがわかりはしないかとも思っていた。しかし、ここまでピンポイントでその話が出てくるとは。 「えっ、違ったの? やべ、俺余計なこと言った。今の、忘れて!」  佐倉が将吾の顔の前でぶんぶんと手を振り回す。その手を掴んで下ろし、将吾は真っ直ぐ佐倉の目を見て言った。 「違ってねえ。その話だ。ただ言っとくけど、俺は下世話な好奇心からその話を知りたいんじゃない。俺が東堂と組んで仕事をする上で、東堂を理解するために知りたいんだ。話してくれないか」  将吾の真剣な態度に、佐倉もスッと真面目な顔に切り替わる。  小野のことだから心配はしてないけど、間違っても言いふらしたりするなよ、と前置きをして、佐倉は話し始めた。 「俺もさ、あの時東堂とずっと一緒に行動してたわけじゃないから、後から聞いた話も結構混ざってるよ。あれはね、ええと、三年前になるのか。だから小野がちょうど本社にくる直前くらいだったと思う」  現場の最前線は退いてもなお、元取材記者らしい簡潔な語り口で、佐倉は語ってくれた。 「……そう。で、その東堂が掴んだ情報筋ってのが、まあちょっとしがらみっていうか、個人的な知り合いだったっぽいんだよね。あ、これは社内でも公にはされてないから、オフレコね」  以前なら気にもとめなかったであろう東堂の選択、行動の中に、東堂を理解する鍵が隠れている気がして、佐倉の言葉を一つでも聞き逃すまいと将吾の脳細胞がフル回転する。 「で、東堂の記事が直接の原因ってわけじゃないけどさ、ほら、人が一人亡くなっちゃったわけじゃん」  三年前に佐倉が東堂と組んで追っていたのは、今回とよく似た内閣の汚職疑惑だった。当時マスコミの追及によって財務省の記録改ざんが発覚し、関わった職員の一人が責任を感じて命を絶つという痛ましい幕引きになった事件だ。  一連の経緯は将吾も知らないわけではなかったが、東堂がどのように関わっていたのか、その詳細は初めて聞く。  ——東堂が書いた記事が、引き金になったのか……。  だとしたら、将吾が知る東堂ならば、相当にこたえたはずだ。  はたから見れば、記録改ざんの動かぬ証拠を挙げたのだから、記者冥利に尽きる話であり、社としても大スクープを取れて万々歳。社会的にも隠されていた真実を伝え、悪事を明るみに出すというマスメディアの正義を実行したのだから、賞賛されこそすれ、どこからも責められるいわれはない。  それでも、東堂は納得できなかったのだろう、と将吾は推測する。  自分が記事にしたことは正しかったのか。もっと他のやり方はなかったのか。責任を感じただろうことは、想像に難くなかった。 「それで、多分そのことを巡って情報筋の人と揉めたんじゃないかなと思うんだけど、とにかく、その人と揉み合いになって、東堂は暴力を振るわれた。それで今でも男にすぐそばに立たれたりとか、腕を掴まれたりとかがダメになったって、ここまでが一応俺が聞いた話」  そう締めくくったあと、「でもさ」と一段声を落として、佐倉が付け加える。 「ここからは俺の完全な想像というか、妄想に近いんだけど」  だいぶ酔いが回ってはいるが、それでもなお勢いで話してしまっていいものか、迷っている顔だ。 「話してくれ」  促すと、佐倉はまだ少し躊躇っているようだったが、一つ頷いて口を開いた。

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