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第12話 踏み込めた、と思ったのに

 え、という呟きが東堂から聞こえたような気がした。どちらからともなく、歩みが止まる。将吾が何を言い出すのかを測るように、じっとこちらを見る東堂の眼差しが痛い。だが、ここで言わなければいけない気がした。 「あの、お前が、高山さんと。ほら、会議室で……」  将吾はつっかえつっかえ、あの日休憩室での一件があったあと、自分が立ち聞きしてしまったことを説明する。それ以降、当局班のやり方に対する東堂の反応であったり、そういう些細な事柄に次第に気づくようになっていったと。 「だからお前が、自分が取材したり記事を書いたりすることで誰かが傷ついたり、苦しんだりするのは許せないって思ってるの、俺は分かってたんだ。いや、あれからお前を見ていて分かってきたって感じかな」  ようやく言えた、と将吾は思った。隠そうとしていたわけではなかったが、どこか胸につかえていたものがすうっと無くなっていく。 「俺はそれが綺麗事だとか思わないし、馬鹿にするつもりもない。それがお前の価値観で、生き方で……ええと、要はそれがお前なんだから、それでいいんじゃねえの?」  口に出したら、これをずっと伝えたかったんだと唐突に分かったような気がした。頼りないかもしれないが、自分は味方なんだと、将吾はそう言いたかった。 「そう、か……」  ところが、東堂はそんな将吾に対して、目を伏せ、ほとんど独り言のように漏らす。  喜んでもらえるとまでは思っていなくても、この反応は予想外で、将吾は戸惑う。こちらの言ったことに気を悪くしたわけでもなさそうで、どう捉えればいいのか分からない。 「ありがとうな」  目隠しをされたように、感情の読み取れない声が短く投げかけられた。ぱっと顔を背けた東堂が、再び足早に歩き出す。将吾も慌てて歩調を合わせた。  何が何だかわからなくて、将吾は歩きながら今の一連の流れを考える。一生懸命、言葉を尽くして、今まで思っていたけれどうまく言えなかったことを、伝えられたはずだった。そして、東堂にしては珍しく素直に礼を言ってくれた。それなのに、嬉しくないのはなぜなんだろう。決してぞんざいに、形式的に礼を言われたというわけでもないのに、奇妙なざらつきが残る。  ——どっちかっていうと、この話を早く切り上げたい、みたいな、辛そうな感じだったよな……。  自分の何がいけなかったのか、将吾は考えても分からず、分からない自分にうんざりした。  ちょっといい気になって、踏み込みすぎたのかもしれない。これが言いたかったんだと、さっき道が開けたように感じたのは自分の思い違いだったのかもしれない。取材も、東堂との関係も、一度は光が見えた気がしたのに、また暗闇に放り出されたみたいに何も見えなくなる。まるで、泥の中を必死に歩こうとしているみたいだ。愚直に何かをするのが苦手ではない将吾も、さすがにじっとりとした疲労を感じた。  体が急に重たく感じられる。進みたがらない足を無理やり動かしながら、将吾はため息をついた。   ◇  予定通り、商工会関係者への取材はつつがなく終了した。先方の事務所を出てすぐ、空いているベンチを見つけて腰を下ろし、東堂がその場で記事に仕立て上げていく。書き上がり次第、高山キャップへ確認依頼をする手筈だ。 「……あの日の、休憩室での騒ぎ」 「ん?」  東堂が、隣で同じく取材メモを整理している将吾に唐突に話しかけてきた。キーボードを打つ手は止めずに、ボソリと言うものだから、独り言かと一瞬聞き逃しそうになる。 「お前、どこまで知っている?」  鋭い口調は、脅しのようにも聞こえる。けれど、取材前にしていた話の続きをわざわざ東堂の方から持ち出してきたということは、少なくとも悪い兆候ではないように思えた。 「……んー、まあ、あの三ツ藤ってやつとの一件で、大まかなところは見当がついてるよ。細かい経緯まではさすがに分かんねえけど……あいつが、元凶なんだろ。お前に、トラウマを植え付けた」  さっきの東堂の反応がまだ記憶に鮮明で、さすがの将吾も慎重に言葉を選ぶ。東堂はすぐには答えず、カタカタとキーボードを打つ乾いた音だけが響いた。 「……トラウマ、か」  やがて東堂の漏らした一言に、将吾はハッとする。苦々しさ、自嘲、様々な色合いの感情が、その言葉の底の方に澱んでいるようで。 「そんな都合のいい言い方ができた立場じゃない。あれは……自業自得だ」  視線はディスプレイに固定したまま、東堂が独り言のように、静かに話し始める。将吾も黙って、手元に視線を落とした。 「今更何を言っても、言い訳にしかならないのはわかっている。起こったことだけを言えば、俺は自分がスクープを取れるという誘惑に負けて、三ツ藤を利用した。あいつは当時、俺にとって都合のいい情報屋だったんだ。そのおかげで、俺は無事特ダネを抜いた。……そして、そのせいで、失われなくていい人命が失われた」  ——いやいや、それはいくらなんでも短絡的すぎるし、自虐的に考えすぎだろ……。  将吾は何度も口を挟みたくなったが、鋼の意志でなんとか耐える。 「自分のしたことがどれだけの影響を持つのかを、初めて思い知った。俺が、殺したも同然だと」  メモをまとめていた将吾の手は、少し前から完全に止まっていた。 「俺は、あの時まで、自分の下した判断に迷ったりしたことはなかった。いつでも、最善で最も合理的な判断を下せている自信があった」  語られる人物像は、こうして一緒に仕事をするようになる前に将吾が抱いていた東堂のイメージそのものだ。 「だが、あの時初めて、迷いが生まれた。有り体に言えば、自信をなくした。何が正しくて、何が間違っているのか分からなくなった。それが、あいつにつけ込む隙を与える形になった……力づくで押さえ込まれるような、隙をな」  淡々と紡がれる言葉はやや抽象的だったが、将吾の推測を肯定するものだった。なぜそうなったのかまでは分からなくとも、愛情というものは一つ間違えると恐ろしく歪み、時としてそうした暴力へと突き進んでいくことがあるのは、将吾も仕事柄よく分かっている。返す言葉もなく、深いため息が出た。 「ろくな抵抗もできなかったよ。もう思い出したくもないと思っていても、ずっと水の底に溜まるヘドロのように、俺の心の底にこびりついている」  東堂もさすがに生々しい部分には触れなかったが、それでも十分すぎるほどにパンチのある内容だった。  ——それだけのことを、ずっと抱えてきたんだなあ……。  将吾は自分に置き換えて考えていた。もう三十にもなれば、結婚を意識する機会が増える。同期でも、早いやつはもう子持ちだ。それが同性同士であっても、そろそろこの先の人生を考え出すのは同じだろう。  仕事も、教えてもらう立場から、後輩や部下へ教える立場へと移っていく。一連の出来事が三年前のことだとすると、東堂が本社へ異動して三年目の話だ。中堅と呼ばれ始める時期、社内で自分の立場を確立するためには、結果を出すしかない。そのプレッシャーは、将吾も痛いほどよく分かる。  そんな時に、仕事に対する自分のあり方も、これから先も共にいるつもりだったパートナーへの信頼も、同時に揺らいだとしたら。せめてどちらか片方ならば、もう片方へ救いを求めることもできようが、両方ともではあまりに逃げ場がなさすぎはしないか。その状態で何年も持ち堪えてきた東堂は、むしろものすごく強いのではないだろうかと将吾は思った。

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