2 / 32
【1】おかしな出逢い②
男が救急車で運ばれたあと、交差点での事故ということで、念のため警察にも届けを出した。現場には接触事故の痕跡などはなく、勇士郎の車にもそれらしき跡はないので、勇士郎が説明した通り、自転車の男性当人による不慮の転倒ということで問題はなさそうだった。
その後、男が運び込まれた病院へ行くと、男はすでに手当てを受けて意識を取り戻しており、勇士郎に迷惑をかけたことを詫びた。
栗原 温人 と名乗った彼は、医師の診断では栄養失調とのことだったが、先ほどより随分顔色が良くなっていたので勇士郎もホッとする。
警察へ届け出た旨を伝えると、栗原は頷き、本人も今回の転倒事故は、勇士郎の車が接近したことに驚いたせいではなく、自分の体調不良が招いたことだと認めてくれた。
だが、言葉はいつ翻されるか判らない。万が一にも仕事に支障が出るのは避けたかった。
文筆業を営む勇士郎は今、一つの大きな仕事に取り掛かっている最中なのだ。
ただでさえ疲労困憊しているところに、ひどく面倒なことに巻き込まれて、内心はかなり苛々していたが、こちらに過失がなかったという言質は、なんとしても目に見える形で取り付けておきたかった。
勇士郎が丁寧な口調で、災難なところを大変心苦しいが、今回の事故について一筆書いて貰えないかと願い出ると、彼は快く応じた。
一度帰宅して用意した合意書の内容をかいつまんで言うと「今回の転倒事故は栗原温人の体調不良による単独の事故であって、高岡勇士郎による車両運行に起因するものではないこと。よって両者の間には損害賠償に関わる義務や請求権等は発生しないこと。この件に関して、今後いかなる事情が発生しても、一切異議申立て、請求を行わないこと」という内容のものだ。
これを二部用意し、それぞれに署名・捺印をする形にした。
彼は文面に目を通してから頷き、今、手元にハンコがないから、退院したらすぐに送ると言うので、彼の点滴が終わってから連絡先を交換した。
なんとか事を収められそうになったことで安堵し、やっと落ち着いて彼の顔を眺める余裕が出来た。
交差点での異様な姿からホームレスかもしれないと思っていたが、見せて貰った免許証にはちゃんと住所が記載されていたし、顔写真も間違いなく今、目の前にいる本人のものだ。
警察にも事情を届けてあることだし、万が一合意書が返送されてこなくても、問題はなさそうだった。
「あなたは、大丈夫でしたか?」
少し不明瞭な声で彼が言った。短い面会時間の間にも、彼があまり人と話すことを得意としていないことは、なんとなく感じ取れた。
けれどその言葉はとても誠実な響きを帯びており、思わずハッとして見返す。心配そうに顰められた男らしい眉の下には、深い色の瞳があった。
(――綺麗な目、しとるな……)
適当にハサミを入れたような奇抜な髪型に、よれよれのTシャツと、とてもお洒落とは言い難かったが、よく見ると彼の顔立ちは、彫りが深く、涼しげで、男前と呼んで差し支えないものだった。
今はベッドの中だが、交差点で見た時の彼は、とても背が高かったように思う。
栄養失調というだけあって痩せてはいたが、元々の骨格が非常にしっかりとしていることは、半袖のシャツから伸びる腕や、肩幅の広さからも十分に見て取れた。
生年月日から彼が勇士郎より七歳年下だと知ったが、とてもそんな風には見えない落ちつきぶりだ。
「高岡 さん?」
急に呼ばれてビクリと身体を震わせる。
「え、なんでオレの名前…」
とっさに言ってから、たった今、連絡先を交換したばかりだと思い出して真っ赤になる。
栗原は、そんな勇士郎を笑ったりはせず、また「大丈夫ですか?」と訊いてくれた。
心から気遣うようなその様子を見て、勇士郎は自分の都合で強引に合意書を取り付けようとした自分がなんだか恥ずかしくなった。それをごまかすように脇に置いてあったお見舞いの菓子折りを慌てて差し出す。
「いや、そんな、申し訳ないです。ご迷惑をかけたのはこちらですから」
彼は大きな手を、風が起こるほどにブンブンと振ったが、勇士郎はそれを無理やりのように押し付けて、どうぞお大事に、と告げると逃げるように病室を出た。
その二日後、早速栗原から合意書が届いた。勇士郎が用意した書面に書かれた、上手くはないが丁寧な文字と、きちんとまっすぐに押された印影を見て、誠実そうな彼の顔を思い出す。
見舞いの礼とともに、迷惑をかけたことを改めて詫びる内容の手紙も同封されていた。
翌日には退院し、体調も戻ったとのことで、これで片付いたのだとホッとしたのだが、何故だか落ち着かない気持ちがいつまでも残った。
ともだちにシェアしよう!