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【1】おかしな出逢い③

 彼と思いがけない再会をしたのはその数日後のことだった。  その日は午後になってから、仕事の資料を探すために、勇士郎は自宅から十分ほど歩いた所にある図書館へ行っていた。  この図書館は小規模な森林公園の一角にあり、勇士郎はいつも図書館で用事を終えてから、この公園を散策するのが好きだった。様々な木々が覆い茂る歩道は、夏でもひんやりと心地よい風が吹き抜ける。  家にこもりがちな生活をしていると、無性にマイナスイオンを浴びたくなることがあるのだ。  優美に枝を広げる立派な欅の木を見上げながら深呼吸をしていると、ガタンッ、と何かが倒れる音がした。  振り返ると小さな東屋の柱にもたれるようにして座り込んでいる人影がある。その脇には倒れた自転車が見えた。そして布団と風呂敷包み――。  激しい既視感が勇士郎を襲った。 (まさか――)  どきどきしながらよく目を凝らして見ると、果たしてそれは、数日前に劇的な出逢いを果たした栗原と名乗る青年だった。 (なにしとんや……、こんなとこで)  しばらく様子を窺っていたが、東屋の柱にもたれた大きな身体は微動だにしない。 (まさか、死…)  一気に蒼ざめておそるおそる近寄ると、かすかに彼の肩が上下しているのが見て取れた。  ひとまずは安心したが、問題はこのあとだ。声を掛けるべきか、このまま立ち去るべきか。  理性は激しく後者を選びたがった。ここで関わりを持てば、先日以上のめんどくさい状況に陥りそうな予感がする。  弱ってはいるようだが生きているみたいだし、ここはそれなりに人も通る。自分が声を掛けなくたって、誰かが見咎めて声を掛けるなり、人を呼ぶなりするだろう。  それに今、自分にはすべき仕事がある。他人に時間を割く余裕などないのだ。  後ろめたい気持ちを引きずりながら踵を返したとき、ポツ、と冷たいものが頬に触れた。 (え、雨?)  さっきまでそこそこ晴れていたのに、見上げた空はいつのまにか薄暗くなっていた。地面もポツポツと少しずつ色が変わり始めている。  勇士郎は東屋を振り返った。当然屋根はあるが、彼の身体はほとんど外に投げ出されているし、倒れた自転車や荷物も同様だ。  勇士郎はしばしその光景を見つめたあと、重い溜め息をつき、再び踵を返した。  目を閉じている栗原にそっと近づき、肩を軽く揺さぶる。 「ちょっと、あんた、……栗原さん」  触れた肩は厚みがあったが、それだけに痩せた身体がなんだか不憫に思われた。 「……ん、」  ちいさく唸って、栗原がぼんやりと目を開いた。 「大丈夫か、ちょっと」  緩慢な動きで首を巡らせ、栗原が勇士郎の方を向く。 「――あれ、……高島さん」 「高岡や。何してんの、こんなとこで」  会うのは二度目だが、この異常事態に際して、早くも敬語は崩れ去っていた。 「あ…、え、っと。…すみません、俺」  まだぼんやりとしているようで、片手で目を覆いながら栗原は軽く頭を振った。 「無事退院したんとちゃうの、なんで家に帰らへんの?」 「あ、」 「ん?」 「……関西のひとなんですね」 「うん、まあ、そうやけど、その話今いらんやろ。とにかく雨降ってきたから、屋根の下入り」 「あ、はい」 「立てるか?」 「大丈夫です」  気怠げな動作でのっそりと立ち上がった栗原は、思っていた以上に背が高かった。間近で向かい合うと勇士郎の目線が彼の鎖骨辺りになる。163cmという勇士郎の日頃からの微妙なコンプレックスが、このとき最大になった。  東屋のベンチに向かい合って腰掛けて、もう一度、大丈夫かと問うと、まだ少しぼんやりした顔で、栗原は頷いた。 「で、なんでこんなとこにおるん? 荷物もあの時と同じやけど、まさか退院したあと、ずっとここにおったワケちゃうやろ?」 「いや…、実は、あの事故の日にアパートを追い出されたんです。家賃が払えなくなって」 「ええ?」  栗原は決まり悪そうに笑う。 「それでどうしようかと思いながらぼんやり歩いてたら、あそこで倒れてしまって」 「そうやったんか」 「ほんとにすみませんでした。ご迷惑かけて」 「いや…それはもうええけど。……で、これからどないすんの」  「どこか安い宿泊所を探そうと思ってたんですけど、入院費払ったら食費が底をついてしまって」 「そんな、栄養失調やったのに、またひどくなるやんか」 「そうなんです。それでなんだかすごくだるくなってしまって、暑いし、」 「で、ここで休んどったと」 「はい」  想像以上にやっかいな状況だった。何故ここまでの貧困に陥ってしまったのかは判らないが、とにかくなんとかしないとこの青年は命を落としかねない。 「誰か頼れる人はおらんの? 失礼やけど、ご家族は?」 「田舎に祖父母がいますが、高齢なので負担はかけたくなくて」 「……そうなんや。親戚とか友達とかは」  栗原は黙って首を横に振った。 「せやったら、……抵抗あるかもしれんけど、例えば生活保護の申請するとか、そういうんはあかんの? とりあえず色々立て直すまでは、そういう制度に頼るいうんもありと違う?」 「多分、祖父母を頼るように言われるんじゃないかと思います。でも迷惑はかけたくないし、連絡されたりも困るので」 「せやけど、こうなったらそんなことも言うてられへんのとちゃう?」  勇士郎はなんだかじれったくなって早口になってしまう。栗原はそんな勇士郎を目を細めて見つめ、静かに微笑んだ。 「優しいんですね。こんな怪しげな男に親身になってくれて」 「……んなことない、このまま帰ったら自分の寝覚めが悪いだけや」  勇士郎は少し決まり悪くなって目を逸らした。 「あん時かて、それらしいお見舞いとか言いながら、ほんまは合意書取りつけたくて必死やったんや。あんたはあんなに誠実に謝ってくれたのにな。ずるい男やで、オレは」  雨が少し強くなってきたのか、屋根を叩く音がはっきり聞こえるようになった。 「正直な人ですね」  静かな声に言われてハッと顔をあげる。栗原の澄んだ目が、好ましげに勇士郎を見ていた。  てっきり呆れられるかと思ったのに、感心したように言われて、なんだかくすぐったい気持ちになる。 「こんなとこで生活しとったら、また入院することになってまうで?」 「そうですね。何か考えます。話聞いてくださってありがとうございました。雨が強くなるといけないからもう」 「うん」 「そうだ」  栗原は呟いて、風呂敷包みの中から黒の折り畳み傘を出して勇士郎に差し出した。 「これどうぞ。持ってないでしょう?」  反射的に受け取りながら、驚いて栗原を見つめる。胸の奥がツキンと痛んで、思わず俯いた。  自分は今、他人に関わっている余裕などないし、面倒なことはなんとしても避けたいのだ。栗原には気の毒だが、ここで背を向けるのが正解だ。  それが充分判っているのに、勇士郎の足は、そこから動いてくれようとはしなかった。  あの日からずっと気になって忘れられなかったものがある。   それは彼の綺麗な目と、『あなたは、大丈夫でしたか?』と訊いた、あの真摯な声だ。 「……仕事、見つかるまでやったら、ウチ来てもええよ」  不意に飛び出した言葉に、自分でも飛び上がるほどに驚く。  本来の自分なら、絶対にあり得ない提案だ。そもそも勇士郎は、自分の領域は絶対に守りたいタイプなのだ。  なのに言葉はまるで用意されていたかのように、再び勇士郎の口から滑り出てしまう。 「気になって仕事に身ぃ入らんから」  俯いたまま告げるが、言葉はいっこうに返されない。  ん? と思って顔をあげると、栗原は目を閉じたまま静止していた。 「反応して!?」  勇士郎がつっこむと栗原の身体がカクンと揺れて、そのまま目の前のテーブルに突っ伏してしまった。

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