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【2】抱えたもの④
食事が終わってから、勇士郎は小型の扇風機を持って「栗原屯所」を訪ねた。
「入るで」
「あ、どうぞ。狭い所ですけど」
「イヤミかい」
勇士郎は笑って中に入ると、扇風機を床に置いた。
「使ってええから」
「いいんですか」
「使 こてへんから。今さっきちょっと調べたら、悪い夢いうんは眠りの浅いときに見るんやて。涼しなれば、少しは眠りやすうなるやろ」
「あ、ありがとうございます。ユウさん……」
「ええから布団かたし。座れへんやろ」
感激した様子の温人から目を逸らし、勇士郎は照れ隠しのため早口に言う。
「あ、はい」
温人が見ていた何かを風呂敷に戻し、布団を脇に片づけると、勇士郎は扇風機のスイッチを入れた。
「極楽の余り風ですね」
「いつの時代の人間やねん」
「祖母がいつも言ってたんです。涼しい風が吹くと。俺は一時期、祖父母と暮らしてたから」
「そうなんや」
「……両親は、埼玉の実家で床屋をやっていたんですが、俺が中学二年のとき、火事で店も家も燃えちゃって」
「せやったんか……」
「怖い夢っていうのは、その火事のときの夢なんです。毎回同じ」
「え」
温人は微かに眉を顰めて目を閉じた。
「俺はその日たまたま、勉強会で友達の家に何人かで集まってたんです。父は商店街の会合に行ってて、その帰りに飲みに行っていたので無事でした」
「そう…なんや」
「近所の人から連絡を貰って駆けつけたら、店も二階の家も完全に炎に包まれていました。救急隊の人が母と妹を運び出して来たんですが、その時に母が叫んでました。ごめんなさい! 私が消し忘れたの!って何度も何度も。店に置いてあるストーブの消し忘れが原因でした」
「……」
「臭いがするんです。夢の中でも。すごくリアルな臭いです。それと妹の泣き声と、母の叫び声」
「……キツイな」
「母と妹は火傷がひどくて、その後すぐ……。父は俺を近所に住む祖父母に預けて、仕事を探しに行きました。でも、そのうち行方が判らなくなってしまって」
勇士郎はなんと言っていいのか判らず、俯いてしまう。
「高校卒業と同時に千葉の伯父が経営する工場で働き始めたんですが、その四年後に伯父が身体を壊して廃業になったんです。で、そのあと最近まで働いていた物流会社へ転職したんですが」
「うん」
「その職場の倉庫で火事があって。……フラッシュバックっていうんでしょうか。急に恐怖が蘇ってきて。その晩から夢を見るようになったんです」
温人がうなされながら呼んでいたのは、母親と妹の名前なのだろう。
温人が夜中に火元確認をしていた理由がこれではっきりした。料理に火を使えない理由も。それだけトラウマが根深いということだ。
想像もしなかった壮絶な過去に、勇士郎の心は重く塞いだ。
「仕事から帰ってきて疲れて眠っても、夢を見る。そのうち、夢を見るのが怖くて、眠るのが怖くなったんです。それで疲労がたまって、ミスばかり繰り返すようになって、その結果、会社をクビになりました」
「医者には?」
「行きました」
「なんて言われたん?」
「睡眠障害というか、睡眠恐怖症と言われるものみたいです。さっきユウさんが言ったみたいに眠りが浅いと悪夢を見やすいみたいで、とりあえず睡眠導入剤とか安定剤とかを処方してもらったんですが」
「効かへん?」
「眠り易くはなるんですけど、そうすると寝過ぎてしまったり、起きるのが辛くなったりしてしまって」
「それで仕事しとったら不安やわな」
「はい」
「元栓の確認とかも強迫観念ていうか。大丈夫だって判ってても、やっぱり不安になって確認してしまうっていう典型的な症状みたいです。先生にはいつも、『確認は確実に、一回だけ』の癖をつけるよう言われてました」
「そうか」
「はい。一度家を出ても、どうしても気になって戻ってしまったり、なかなか家を出られなくて仕事に遅刻してしまったり」
「……難儀やなあ。薬はまだあんの?」
「はい、残ってるのがあります」
「ほな、とりあえずそれでまず睡眠不足を解消するのが先やな。ここにおる間は、朝起きるんが辛かったら寝坊したってええんやし」
「すみません」
「あとは、確認か」
勇士郎は腕を組んで考えながら、目の端で、先ほど温人が見ていた何かを捉えた。
「さっき、何見とったん?」
「え、…ああ、これ」
温人は風呂敷の中に差し込まれた色紙くらいの大きさのファイルを取り出した。
「描いてもらったんです。色んな人に」
「見てええ?」
「はい」
ファイルを開くと、色紙や厚紙の束が挟んであった。どの紙にも、綺麗に色づけされた女性と女の子の絵が描かれている。
「もしかして、お母さんと妹さんか?」
「はい。……母と、妹の萌 です」
温人は勇士郎の手の中の似顔絵を見つめながら、呟くように言った。
「火事で、写真もぜんぶ焼けちゃって」
「……」
「似顔絵って、本人が行くか、写真を持って行くかしないと、基本的には断られるんです」
「せやろな。似とるかどうか判断できひんもんな」
「はい。でも、事情を話すと引き受けてくれる方もたまにいて、あとは知り合いの人から美大の学生さんを、アルバイトで紹介してもらったり」
「ふうん。大変やったやろ、これだけ集めるんは」
「はい。一番似ているのが手に入ったら止めようと思ってたんですけど、……どれも似てる気がするし、どれも似ていない気がするんです」
寂しげに絵を見つめる温人の横顔を見ていたら、勇士郎の胸も鋭く痛んだ。
多分、それは温人にとって、二人のことを思い出すための、いや、忘れないための、大切な儀式なのだろう。
大事な家族の顔が日ごとに薄れていくのは、とても怖いことに違いない。
「……ええんとちゃう? 人間は一面的やないし、相対的やし、色んな面を持っとる。温人のその時の気持ちによっても見え方が違うやろ。だから、温人が一生懸命二人のこと想いながら伝えて描いてもろたんなら、それぜんぶ、ちゃんと二人の姿なんとちゃう?」
一瞬、温人の目がちいさく揺れたような気がした。それから微かに息を吐くように笑って、温人は頷いた。
「そうですね。……ありがとうございます」
「田舎、たまには連絡したっとんの?」
「……いえ、できるだけ心配かけたくなくて」
「そぉか、…でも居場所だけはやっぱ、伝えといた方がええよ。お父さんのこともあるし、温人まで行方不明みたいになったら、おじいちゃんおばあちゃんも心配するやろ」
「……はい、そうですね」
「ここの住所、教えてええから。温人がその気になったら手紙でも出したり」
「はい、…ありがとうございます」
「うん」
よし、と言って勇士郎は立ち上がった。
「ほな、行こか」
「え、どこに」
温人がつられたように立ち上がる。
勇士郎は部屋を出ようとして、壁に立てかけてある古いレコードを見つけた。『愛の讃歌』と書かれている。
「なんや、コレ」
「あ、拾ったんです。前のアパートのゴミ置き場で」
「えっ、なんで」
勇士郎は反射的に手を離してしまう。
「それ、形見みたいなものだから」
温人はレコードを手に取り、大事そうに見つめた。このレコードにもまた、何か思い入れがありそうだったが、それはまた別の機会に聞かせてもらおうと思いながら、勇士郎は「栗原屯所」を出た。
そのまま二人でキッチンまで行き、元栓の前に並んで立つ。
「ほな、就寝前の点検や。触って確認してみ」
温人は言われた通り、元栓を触り確認する。
「次、指差し確認」
温人は元栓を指して、「元栓、よし」と声に出す。
「うん。ほな今からオレがおんなし確認するから」
「はい」
勇士郎は温人と同じように元栓確認を行った。それから炊飯器や電子レンジなどの電源やコンセントも同様に確認する。
「ええな、今オレらは四つの目できっちり確認した。せやから間違いは絶対にない。そうやろ?」
「はい」
「ほな、歯磨いて寝。今夜はもう、ここは立ち入り禁止や。ええな」
「――ユウさんは優しいですね」
「え、なんや、急に」
「ここに置いてくれる時も、わざと自分が気になるから自分のためだって言ってくれたし、食事当番のことも、俺が食費借りてること負担にならないようにって、考えてくれたり。さっきの話もすごく真剣に聴いてくれて……ほんとに、すごく優しいです」
「か…、買い被りすぎや」
勇士郎が赤くなって、ううぅう…とうなりながら俯くと、ふいに大きな手が勇士郎の一回りちいさな手をそっと掴んだ。
ドキンッと心臓が跳ねてハッと顔をあげると、見たこともないほど優しい目をした温人が、自分を見つめている。
厚みのある男らしい手に、ぎゅっと力をこめて握られると、鼓動がにわかに激しくなって、どうしていいのか判らない。
「ユウさん」
「はっ、はい」
温人は一瞬困ったような、苦しそうな目をしたあと、そっと手を離した。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「あ…、うん、ぉや、おやすみ」
温人はすぐに「栗原屯所」へ入って行き、間もなく電気が消された。
けれど勇士郎はしばらくその場から動くことが出来なかった。
ドキン、ドキン、と胸が鳴り続けている。
唐突に離された手が何故か寂しくて、思わず反対側の手で包み、ざわめく胸の上をそっと押さえた。
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