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【4】ひとつの終わり②
第二稿が上がったのは、辻野から届いた招待状の、出欠回答期限の少し前だった。執筆中もそのことは常に勇士郎の意識の片隅にあったが、机の奥にしまったそれを取り出すことがどうしても出来ず、期限が来ても結局返送することが出来なかった。
温人は積極的に就職活動をしているようだったが、なかなか面接をするところまでには行かないようだった。
勇士郎は励ましつつも、いつか温人がここを出て行ってしまう日が来ることを寂しいと思い始めていた。もっと一緒に今のままいられたらいいなどと考えて、自分勝手な考えに落ち込んだりもする。
辻野のことがあってから、少し感傷的になっているのかもしれない。今まで独りでいることに何の不自由も感じなかったのに、最近は絶えず胸の中を、冷たい風が吹き抜けているような気がしていた。
九月に入り、第三稿が上がった頃、思いがけず辻野から、「出来れば出席してくれると嬉しい」というハガキが届いた。
郵便物を取ってきた温人からそれを渡されて、勇士郎は無言でそれを受け取った。
夕食はほどんど喉を通らず、早々に箸を置くと、少し散歩してくると言って、勇士郎は部屋を出た。
最近時々温人と走っている道を、俯いて歩いた。夕方に降った雨のせいか、風は濡れた土と草の香りを含んでおり、穏やかに勇士郎の額や首筋を撫でながらすり抜けてゆく。
辻野が悪いわけじゃない。自分が悪いわけでもない。ただそれぞれの先に、もう二度と交わることのない道があるだけだ。
かすかに涙が滲んで、勇士郎は手の甲でそれを素早く拭った。
「ユウさん」
家を出て三十分くらいした頃、ふいに後ろから呼ばれて、驚いて振り返る。
温人が少し息を切らして立っていた。
「なに、どしたん」
泣き顔を見られたのではないかと、咄嗟に顔を背ける。
「俺も食後の散歩したくなって。一緒に歩いてもいいですか」
「……ええけど」
温人は勇士郎の隣りに並んで歩き始めた。なにを言うのでもなく、黙って二人で歩く。
それでも勇士郎を気遣う温人の優しさが伝わってきて、勇士郎はちいさく鼻をすすりながらかすかに笑った。
そのまま半時ほどゆっくりと歩いていると、次第に勇士郎の心も落ち着きを取り戻し始める。
「夜は少しだけ涼しくなりましたね」
絶妙のタイミングで温人が口を開いた。
「うん」
「明日の晩、ひやむぎでいいですか」
勇士郎はプッと吹き出した。
「またひやむぎか。まあええけど。ついとったるから、温人が茹でるんやで」
温人は少しずつ、火を使えるようになってきていた。ひやむぎを茹でるのは、リハビリみたいなものだ。そばに勇士郎がぴったりとついていれば、湯を沸かすことくらいは問題なく出来る。それでも温人はちょっと緊張した様子で、はい、と頷いた。
散歩を終えると、二人はそのまま明日の晩ご飯の材料や、酒類を調達するために、近所のスーパーへ行った。
時刻は九時少し過ぎ。店内は人も少なく、のんびりとした雰囲気だった。
温人がカートを押して、勇士郎が必要な食品や日用品をカゴに入れてゆく。なんだか同棲中のカップルみたいだと考えて、そのあと馬鹿みたいだと勝手に照れる。
「ユウさん、ひやむぎ、どれがいいですか」
「それ、その色ついたのが混ざっとるやつ」
ピンクや緑の色付き麺が入っているものを指差すと、温人は笑った。
「ユウさん、子供みたいですね」
「なんやとー」
勇士郎が温人の背中に軽く体当たりすると、温人はまた嬉しそうに笑った。
(こいつの笑う声って、ええな……)
さっきまでの重く沈んだ気持ちが、少しずつ浮上してゆくのを感じる。
いつも穏やかで、決して人を不快にさせない温人の人柄は、勇士郎の心まで穏やかにしてくれた。
その時、くすくすと笑う声がすぐ近くで聞こえて振り返ると、若いカップルがなにやら温人の方を見て笑っていた。
「スーパーサイヤ人か」
「あはっ、ウケるー」
温人の奇抜な髪型を揶揄しているのが判って、勇士郎はカッとなった。離れてゆく二人に文句を言ってやろうと足を出したとき、大きな手に二の腕を掴まれた。
「いいんですよ、ユウさん」
「でも、アイツらすげえ失礼やん」
尚もムカムカして二人の背を睨む勇士郎に、温人は苦笑した。
「俺はなんとも思いません」
相変わらず穏やかな温人がもどかしくて、勇士郎は唇を噛み締める。
「温人、ええ男やん、髪もちゃんとカットして、お洒落もしたら、絶対カッコええのに、誰もあんなこと言わへんで」
温人が驚いた顔をしたのでハッとして、今自分が言ったことを反芻する。思わず日頃から思っていたことが口から出てしまった。
「あ、ありがとうございます」
温人がちょっと照れたように言うので、勇士郎はすごく恥ずかしくなって俯いてしまう。
「いや、普通にそう思うだけやから。……てか、もっと温人は自分をカッコようみせる工夫したらええんや。そ、そんなんで彼女とかなんも言わへんの」
普通に考えれば、男友達が相手を単に褒めて励ましているくらいのことなのに、ゲイである勇士郎は、それが相手にどんな風に受け取られてしまうのかと思って緊張してしまうのだ。
だから最後の一言は、軽口を装って茶化してみただけだった。だが、次の温人の言葉を聞いて、勇士郎はヒヤリと心臓を冷たい手で撫でられたような感覚に陥った。
「もう諦めてたみたいです。最初は口うるさく色々言ってきたんですけど」
「え……、あ、そ、そうなんや。へえ、なんや、ちゃんと彼女とかおんねんな」
失礼なことを言っている自覚もなく、何故だかひどく動揺して手が震えた。
「いや、もう別れた、というか彼女から離れていっちゃったんですけど」
「へえ、そうなんや? ふうん、どこで会うたん? 千葉? 埼玉?」
決して詮索好きなわけではないのに、喋っていないと、何か不安な気持ちが溢れてきそうで怖かった。
温人も二十五歳の男だ。女性とつきあった過去があってもなんの不思議もない。
むしろこれだけ顔も性格もいい男に、今まで恋人がいなかったとしたら、そっちの方が不思議だ。
なのに何故自分はこんなにも動揺しているのだろう。
どうしてこんなに、胸が痛むのだろう。
温人はその後も何かを喋り続けていたが、勇士郎の耳には、ほとんど何も入って来なかった。
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