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【4】ひとつの終わり③

 三十二歳という歳になって酒の味を覚えた勇士郎は、ここ最近、夕方から飲み始めることも多くなった。それが逃避行動であることは自覚していたが、あえて目を瞑っている。 「あ、また飲んでる!」  バイトから帰ってきた温人が、ただいまも言わずに、リビングで飲んでいる勇士郎を咎める。 「よう、ハルトちゃ~ん! お勤めご苦労!」  勇士郎はふわっふわの上機嫌だ。 「……最近、ちょっと飲み過ぎじゃないですか。身体に良くないです」 「まあまあ、ええやん。それより、これ、何やと思う? 当ててみ」  床の上に布を被せた四角い物が置いてある。 「なんですか」 「じゃーーん」  勇士郎は得意げに布を取った。 「え…ッ、どうしたんですか、コレ」  現れたのは、レコードプレーヤーだ。 「通販でええのめっけたんや。こんな薄いのにスピーカー内臓やで」 「ユウさん……」 「ええから、はよ持ってき」  温人は頷いて「栗原屯所」へと向かい、すぐに例のレコードを持って戻ってきた。  慎重にレコードに針が落とされ、幾分擦り切れた『愛の讃歌』が流れ出す。エディット・ピアフの代表曲を、かつて日本の名シャンソン歌手がカバーしたものだ。   古いレコードで音質はあまり良くないが、味わいのある歌声が耳に心地よい。 「感激です…」 「ええ感じやん」  情感たっぷりに歌い上げられる愛の歌を、二人はしばらくゆったりと聴き入った。 「……前のアパートの、隣に住んでたおばあさんなんですけど、よくお惣菜とか分けてくれました。上品で、とても優しそうな人でした。独り暮らしらしくて、雨の夜になると決まってこの曲が流れてくるんです。――壁、薄いから」  温人は回るレコードを見つめながら静かに笑った。勇士郎も黙って頷く。  窓を打つかすかな雨音とともに、安楽椅子などに腰かけて、目を閉じながらこの曲を聴くそのひとの姿を、勇士郎は想像する。 「去年の秋、急に亡くなってしまって、誰も身内がいないとかで、家の物は全部、他人が処分してたみたいです」 「で、ゴミ捨て場に、レコードか、」  温人が頷いた。勇士郎は温人のためにもワインを注いだ。 「大事な思い出も、他人にとったらゴミか」  やるせないような思いがこみ上げる。  その時温人が、テーブル脇のゴミ箱の中に辻野からのハガキを見つけて拾い出した。例の催促のハガキだ。 「これ、どうしたんですか」 「ああ、それ。もうええねん」 「九月十九日、って…明日じゃないですか」  勇士郎は一瞬黙ったのち、ぐっとワインをあおった。 「どうせ、頭数揃えるのに送ってきただけやろ。もう何年も会うてへんのに」 「お友達ですか」 「昔のバンド仲間や」 「へえ、ユウさんバンドやってたんですね。そういえばよく歌ってますね、お風呂で」 「勝手に聴くな~。金とるで〜」 「その価値はあります」  ハッキリした言葉に勇士郎は虚をつかれて、思わず温人を見つめた。  温人はニコリと笑ってみせる。 「……ヤなやつや」  温人は笑みを浮かべたまま、勇士郎のグラスにワインを足した。 「一緒に上京して、一時はプロを目指したこともあったな。辻野はギター担当。オレはボーカルや」  勇士郎の顔が一瞬歪む。 「……こいつだけやったな、オレの歌、本気で認めてくれたんは」 「――会いに行ったらどうですか」  勇士郎はすぐに首を振った。 「勝手に幸せになったらええねや。オレにはもう関係ない。赤の他人や」 「ユウさん」 「ええねん、どうせなんも用意してへんし。髪やってこんな、伸びっぱなしでボサボサやし」  後ろで軽く結んでいた髪を乱暴にほどく。 「……」 「あー、もうええ、飲むでー、どうせオレはねじくれとるんや。素直におめでとうも言えへん醜い男や!」  酔ったせいか、ふいに目の奥が熱くなって、勇士郎はテーブルに顔を伏せた。涙を必死に堪えながら、唇を噛み締める。  すると温人が立ち上がる気配がして、勇士郎はピクリと肩を揺らした。  呆れたのだろうか。ぐずぐずとみっともない姿をさらしたことが急に恥ずかしくなってくる。  だが温人はすぐに戻って来て、勇士郎の腕を優しく掴んだ。 「ユウさん、ちょっと来てください」 「え、なに」 「カットするんです」 「はあぁっ??」  温人はいつのまにか握っていた散髪用と思われるハサミをカチャカチャ鳴らした。 「どしたん、それ」 「親父が昔買ってくれたんです。左利き用のハサミだって言って」 「……切ったことあんの?」 「もちろん」  勇士郎は温人の奇抜な髪型をジッと見た。 「人の髪は初めてですけど」 「絶対イヤやっ!!」  温人は笑って、ウソですよ、と言った。 「まだ両親が店やってた頃、興味があって、髪の洗い方からカットの仕方まで一通り教わったことがあるんです」 「……」 「ユウさんは行った方がいいと思う」  いつになくハッキリとした物言いに、勇士郎は唇を噛む。 「さあ、立って」  強い腕に軽々と持ち上げられて、勇士郎は風呂場へと連行された。  ケープ代わりに透明なゴミ袋を首に巻かれ、まぬけなテルテル坊主になる。  抵抗することも出来たが、ここでおかしな髪型になれば、式に行けない正当な理由が出来ると、温人に失礼なことを考えた。  温人は意外にも迷いのない手つきで大胆に髪を切り落としてゆく。 「ちょ、切り過ぎとちゃう?」  バサリと落ちた髪の束に焦って言うが、温人は大丈夫です、と自信ありげに返すばかりだ。 (こいつって、こういうトコあるよなあ……)  普段はおよそ自己主張などというものとは無縁そうな男なのに、たまにこちらが驚くほどはっきりとモノを言ったり、大胆な行動に出たりするのだ。  それは少なからず勇士郎をときめかせ、心をざわつかせた。 「なあ、今までどんな人の髪切ったん?」 「そうですね、家族とか友達とか、近所の子供とか、お金のない大学生とか、口コミで広がっていって。ただでカットしてくれるからって」 「へえ、今で言うカットモデルみたいなもんやな」  温人がちいさく笑う。 「そう言うとカッコいいですけど、実際は実験台みたいなものです。だって俺、その頃まだ中学生ですから」 「はは、確かに。切ってもらう方も勇気要るわな」 「まあ、おかしくなったら、そのあとちゃんと両親が整えてくれるんですけどね」  話しながらも、温人はカットする手を止めない。  前髪を切る時に、一瞬目を開けると、目の前にひどく真剣な目をした温人がいた。鋭いと言ってもいいほどの強い眼差しにドキッとする。造作が整っているだけに、その表情は妙に迫力があった。 (カッコええな、こいつ――)  男っぽい眉と切れ長の澄んだ目が、目を閉じたあとも鮮やかな残像となって、勇士郎の胸を熱くざわめかせた。  時折、彼の指が、頬や首筋やうなじに触れるたびに、産毛が逆立つような感覚に陥り、不埒な熱が身体を昂らせる。  男に髪を切らせることが、とんでもなくエロティックなことのように感じられ、勇士郎はもう何も喋ることが出来なくなり、黙ってそのどこか官能的なひとときを享受した。 「できましたよ」  三十分ほどして、温人がどこか満足げな声で言った。 「あ、待ってください」  柔らかいタオルで優しく顔についた髪を払ってくれる。それからビニールケープを外すと、温人は勇士郎の手を取って、洗面所に導き、新しいヘアスタイルを見せてくれた。 「え――」  勇士郎は思わず目を瞠る。 (信じられへん……)  鏡に映っていたのは、見違えるほどに若々しく、すっきりとした自分の顔だった。  ゆるいウェーブを活かしながら、勇士郎のちいさな顔を柔らかく包み込むように、絶妙なラインで切り揃えられている。  前髪を作ったことで、勇士郎の大きな目がいっそう引き立ち、まるで中性的なモデルみたいな印象だ。 「え、ほんまに、コレ……オレか?」 「そうですよ。イメージしてた通りでした」  温人が背後に立って、同じように鏡を覗き込む。 「俺が言うのもなんですけど、凄く似合ってます」  鏡の中で視線が交わり、勇士郎はサッと頬を紅潮させた。 「でもなんか、ちょっと…可愛くなりすぎた」  何故か少し不機嫌そうな声で温人が呟く。 「は?」 「みんな、ユウさんのこと注目するだろうな」 「な、何言うてんねん」 「誰かに言い寄られないか心配です」 「あ、あほか、そんなワケないやろ」  つっこみながらも、胸がどきどきしてくる。まるで見知らぬ誰かに嫉妬するような温人の言葉に、深い意味を探してしまいそうになる。  辻野の結婚式に行く羽目になったのに、何故だが甘くふわふわした気分になって、勇士郎はそんな軽薄な自分が恥ずかしくなった。 「で、でも、すごいな、温人、めちゃめちゃカット巧いやん、びっくりした。……ほんま、ありがとな。なんか…、オレ、勇気出て来た」  不可思議な自分の気持ちにフタをして、素直に感謝を伝えると、温人は少し照れ臭そうに笑って、良かったです、と言ってくれた。

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