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【4】ひとつの終わり④
翌朝、勇士郎は普段めったに着ないブラックスーツを身に着けた。光沢のあるシルバーのネクタイを締め、同色のポケットチーフを胸元に覗かせる。
温人にカットしてもらった髪も、綺麗にセットして勇士郎は鏡の前に立った。
「どう、おかしない?」
振り返って後ろに立つ温人に尋ねると、温人は見惚れたような表情で、しばらくじっと勇士郎を無言で見つめた。
「ちょ、反応してぇや」
恥ずかしくなって言うと、温人はハッとしたようにかすかに目を逸らした。
「凄く…、素敵です」
「ほんま? 良かった」
「……ほんとに行くんですか」
勇士郎は小さく吹き出す。
「自分が行け言うたんやろ~」
「お酒飲んじゃ駄目ですよ」
「えー、飲むやろ、そりゃ少しは」
何故かこの頃、自宅以外での飲酒を温人に止められる。
「大丈夫や、暴れたりせえへんから」
「そりゃそうでしょうけど」
「なるべく早はよう帰るでな」
勇士郎が言うと、温人はようやくいつもの穏やかな笑みを見せて、いってらっしゃいと勇士郎を送り出してくれた。
辻野の結婚式は都内のホテルで行われ、チャペルでの挙式後には、立食パーティーの形で披露宴が催された。格式ばったものではなかったことに、こういう場があまり得意ではない勇士郎は幾分ホッとする。
美しく華やかな式だった。神父の前で永遠の愛を誓い合った二人は、溢れるほどの幸福の光に包まれて、勇士郎の目には眩しいほどだった。
白のタキシード姿の辻野が、次々と来客たちと笑顔で言葉を交わしているのを、勇士郎はシャンパンを片手に離れた席から見ていた。
出逢った頃よりずっと表情にも仕草にも余裕があり、大人の男としての魅力も随分増していた。これから伴侶と共にしっかりと未来を歩いてゆく男の、人としての自信と逞しさが溢れている。
自分の不安定さとは大違いだと思った。
思わず俯きそうになったとき、辻野の目が勇士郎を捉え、パッと顔を輝かせて足早に近づいてきた。
「よう、来てくれたな」
「うん、おめでとさん。返事ぎりぎりになってしもてほんまごめんな」
「いや、来てくれてほんとに嬉しいよ。何年ぶりかな。三年、いや、四年ぶりくらいか」
「五年三ヶ月ぶりや。大阪で徹 っちゃんの結婚式のときに会うたんが最後やろ」
「そっか、あれからもうそんなに経ったんだな。大阪、たまには帰ってんのか」
「全然。帰っても親と喧嘩になるだけや」
「ハハ、しっかし、勇士郎は全然大阪弁が抜けないな」
「辻やんは、すっかり東京人や」
「だって、大阪出て、もう十五年近く経つんだぜ」
「……せやな、変わらんほうがおかしいわな」
勇士郎は俯き、ちいさく笑った。
「辻やんは、結婚せえへんと思とった。独身仲間がおらんなったわ」
「おまえだって、もうそろそろじゃないのか。相手、いるんだろ」
「おらへん、そんなん。仕事ばっかしとる」
「ああ! 観てるよ、ドラマ。おまえが書いたやつは全部録画して観てる」
「え、ほんまに?」
「当たり前だろ、クレジットにおまえの名前が出てくるたびに、嬉しくて笑っちまうんだ。職場にも自慢してるんだぜ、これ俺の親友なんだぜって」
あの頃と変わらず、素直な賞賛が心から嬉しくて、そしてひどく悲しくなった。
「おおきに、辻やん」
「すげえよな……、歌から転向して成功しちまうんだから。頑張ったんだな。ほんとすげえよ」
「ほめ過ぎや、変わっとらんな、ほんま」
少し掠れた声で言って笑うと、辻野はふと真面目な顔になった。
「歌は、完全にやめちまったのか」
「ハハ……、昔の話や。とっくに忘れとった」
その時、新婦の紀子がやって来たので、辻野がその肩を抱き寄せながら、嬉しそうに笑った。
「紹介する。五歳年下の新妻、紀子だ」
「やだ、もう」
紀子が辻野の胸を叩く。華やかなドレスがとてもよく似合う、可愛らしい女性だ。
「こちらが高岡勇士郎。バンド時代の戦友だ」
「紀子です。高岡さんのこと、いつも聞いてました。お会いできてとても嬉しいです。うわー、ほんとにかっこいいですね!」
屈託のない笑顔を向ける紀子に、勇士郎は強張った笑みを返した。
「今日は一曲歌ってくれるだろ。楽しみにしてたんだ」
辻野が会場のグランドピアノを目で促す。
「あかんあかん、歌はやめたて言うたやろ」
勇士郎はとんでもないと、焦って手をぶんぶんと振る。
「頼むよ、もう一度聴きたいんだ。仲間の最後のわがままだと思って」
最後のわがまま、という言葉が胸に突き刺さり、勇士郎は笑顔を作っているのが辛くなって、俯いてしまう。
「しっかし、おまえ若いなぁ、ほんとに俺と同じ歳かって思うわ」
「ハハ、同じに決まってるやろ」
力なく笑うと、辻野が目を細めるようにして勇士郎を見つめた。
「その髪型、すごく似合ってるな」
その言葉を聞いたとたん、ぼろぼろっと涙が零れ落ちた。
「え、なに、なんで? どうした!?」
辻野が慌てふためく。紀子もひどく驚いた様子で、おろおろしているのが判った。
「ふっ、ごめ、…何でもない」
勇士郎は慌てて涙を拭いながら、何故だかとても今、温人の顔が見たいと思った。
披露宴は賑やかに、そして穏やかな空気に包まれながら進行した。
司会者が二人の馴れ初めなどを話しているのを、勇士郎は相変わらず会場の端で見ていた。仲睦まじい二人の様子が、勇士郎を孤独にする。
周りにはやしたてられて、二人がキスをすると、勇士郎は堪らなくなって、グラスを置き、会場を出ようとした。
「本日はこの会場に、新郎の学生時代からの親友であり、バンド仲間でもあった高岡勇士郎さんがいらっしゃっています」
突然、スポットライトが勇士郎を照らし出した。勇士郎が驚いて会場を振り返ると、大きな拍手が起こった。
「現在は売れっ子脚本家でいらっしゃる高岡さんですが、その歌声も大変素晴らしいとうかがっております。新郎たっての希望により、是非一曲お願いしたいのですが、いかがでしょう」
再び大きな拍手が起こる。勇士郎は蒼くなって手を振り、ムリだと何度も訴えるが、辻野は真剣な目で勇士郎を見ている。
勇士郎はしばし迷ったのち、覚悟を決めてグランドピアノへと向かう。ピアニストと少し相談をしたあと、震える足でステージに上がった。
会場がシン、とする。勇士郎が呼吸を整え、ピアニストに合図を送ると、シンプルで美しい旋律が流れ出した。
『THE ROSE』だ。
愛は河だと言う人がいる。
若い葦 を沈めてしまう河であると。
そんな風に始まるこの曲は、愛というものの脆さや危うさ、虚しさなどを、淡々としたメロディーに乗せて紡いでゆく。
そして愛は花であるとも歌う。誰もがその花を咲かせるための、かけがえのない種なのだと。
静かな言葉の中にこめられているのは、生きることの困難さと、その尊さだ。
勇士郎は、それらの意味を噛みしめながら、一言一言に想いを乗せて歌った。
会場は勇士郎の、耳に心地よく響く、確かな歌声に、うっとりと耳を澄ませている。
勇士郎は辻野を見つめた。辻野が何かを感じ取ったように、ハッと目を見開く。
その横では紀子が涙ぐむ姿が見えた。
勇士郎の心は何故か、不思議と穏やかになっていった。
果てしない道の前に立ち、孤独な夜に沈むとき、誰もが、自分は愛などとは無縁だと思ったりもするだろう。
けれど厳しい冬を越えた種が、春には太陽の恵みを受けて薔薇 を咲かせるように、愛もまた、辛い日々を越えたあとに、私たちを優しく包んでくれる。
そんなことを、この歌は伝えているのだろうと、勇士郎は思う。
しっとりとした余韻を残し、勇士郎が静かに歌い終わると、一瞬の静寂のあと、大きな拍手が沸き起こった。それは段々に盛り上がり、長く長く続いた。
その中で辻野だけが、複雑な表情で勇士郎を見ている。だが勇士郎が笑って頷くと、辻野はゆっくりと笑顔を取り戻し、勇士郎に頷き返して、力強い拍手を送ってくれた。
勇士郎はその辻野を見つめながら、あの頃全ての観客を虜にした笑顔で、マイク越しに柔らかに告げた。
「辻やん、ええ青春時代をありがとう。幸せになって下さい――」
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