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【5】切ない予感③

 執筆が乗りやすい時間帯というものは人ぞれぞれだと思うが、勇士郎は朝が弱く、午後から夜に向けて、どんどんエンジンがかかっていくタイプだ。  それでも忙しい時期は、朝も夜もなくなるので、睡眠がかなり不規則になる。そのためおかしな時間に眠ることも多かった。  うたた寝は風邪を引きやすいので、仮眠を取る時は夏でも必ずブランケットを被るようにしている。体調を崩して原稿に支障が出るようなことは絶対に避けたいからだ。  しかしこの頃は、ふとした瞬間に意識を失うように眠ってしまうこともあり、いつになく疲れているのだと知る。 「ユウさん、こんなトコで寝てたら風邪ひきますよ、ユウさん」  優しく肩を揺り動かされて、ピクリと目を醒ました。 「ん……?」  目を擦りながらぼんやりと顔をあげる。どうやらまたリビングのソファでうたた寝をしてしまったようだ。ちょっと目を休めるつもりで目を閉じたら、そのまましっかりと眠ってしまったらしい。 「温人ぉ? おかえり」 「すみません、ちょっと遅くなってしまいました」 「ええよ、……――えっ?」  見上げた先にとんでもない男前がいて勇士郎の目がいっぺんに醒める。 「な、なに、どしたん、その髪」 「バイトの帰りに切ってきたんです。変ですか?」 「い、いやいや、全然、全然変とちゃうよ、めっちゃええやん」  褒められて温人は嬉しそうに笑った。  さっぱりと短く、綺麗に整えられたスタイルは、目を瞠るほど温人に似合っている。  勇士郎の心臓が急にドッキンドッキンと鳴り始めて、冗談ではなく息が苦しくなった。まるで恋する女子高生だ。 「やっと面接受けさせて貰えるところがあったので、さすがにまずいかなと思って」 「そうなんや、良かったやん! やったな、頑張れ!」 「はい」  温人は微笑んで頷いたが、その表情はどこか浮かない感じだった。久々の面接に緊張しているのだろう。前の会社を辞めた理由もあり、色々と不安もあるのに違いない。  もし仕事が決まれば、いずれ温人はここを出て行ってしまう。最初からそういう約束だったけれど、勇士郎はそのときを想像するだけでとても寂しくなった。けれど自分には引き留める資格などない。  温人にとって一番大事なのは、これからの人生だ。温人が再び社会に出て、安心して生きていけるように、願えばいい。もし必要ならいくらだって応援も手助けもする。それが、自分が温人にしてあげられることだ。  温人は冷房で冷えた身体を温めた方がいいと言って、電子レンジでホットカフェオレを作ってくれた。 「おおきに」  勇士郎が受け取ると、温人もソファの隣りに腰掛けた。少しミルクが多めのそれは、目覚めたばかりの身体に、優しく染み込んでゆくようだ。 「……ユウさんに言ってなかったけど、実はあの変な髪型は、前のアパートにいたときに、夜中に発作的にやったものなんです」 「え…、」 「仕事場で火事があって、悪夢を見るようになって、仕事もダメになったとき、なんだか気が狂いそうな感覚にしょっちゅうなってて、何日も眠れなくておかしくなりそうでした。それで呼吸も苦しくなって、夜中に気が付いたら剃刀を持ってたんです」  怖ろしい話に勇士郎は息を呑んだ。そこまで追いつめられていたとは思わなかったのだ。 「自分でも何をしようとしてるのか判りませんでした。だけど何か自分の周りに重たい膜が張っているみたいで、苛々して、気が付いたら髪をむしるように切り捨てていたんです」  その夜の、温人の恐怖と孤独を思うと、勇士郎の胸がキュウッと痛くなる。 「ほんとに気が狂っていたのかもしれません。きっともう、このまま何も幸せなことなんかないまま死ぬんだろうなって、思ってました」 「温人」  勇士郎が思わずカップを置き、温人の右腕を両手で掴んで見上げると、温人は話した内容とは裏腹に、柔らかい笑みを浮かべて勇士郎を見つめた。 「でもユウさんと出逢って、たくさん優しくしてもらって、俺は思い出したんです。誰かと話をすること、一緒にご飯を食べること、お酒を呑んだり、映画を観たり、そういうことがぜんぶ、ほんとに、すごく幸せなことなんだって」  温人は自分の腕を掴む勇士郎の両手を取って、いつかしたように大きな手で柔らかく包み込んだ。 「感謝してます、ユウさん」  真心のこもった言葉に、勇士郎の目が潤み、つと俯いてから、はは…、と笑った。 (アホやな、オレ……)  言葉にならないだけで、その「想い」はもうすでに、勇士郎の心の一番大切な場所に、しっかりと根を張ってしまったような気がした。

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