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【6】突然の訪問者③
その女性が突然やって来たのは、その翌日のことだった。
玄関先で、突然の訪問を丁寧に詫びたその若い女性は、須田 明日香 と名乗り、温人の幼馴染だと告げた。
勇士郎は激しく動揺したが、温人が不在の今、家に入れる訳にもいかず、明日香と共に外に出た。
明日香は往きに通ってきた公園のベンチでいいと言ったが、今の季節はやぶ蚊なども多いので、近くのカフェに誘った。
二人ともコーヒーだけ注文し、緊張しながら向き合う。
「高岡、勇士郎さん、ですよね」
「はい」
「本当に、突然すみません。先日埼玉の実家に帰省したときに、温人のおばあちゃんに会ったんです。温人が今、千葉で知り合った人の所にいるらしいって聞いて、なんだか心配になってしまって」
「ああ」
勇士郎はやっと合点した。
温人と一緒に住むようになって、彼の複雑な事情を知ったとき、埼玉に住む彼の祖父母にだけは、居場所を伝えておいたほうがいいと勇士郎が勧めたため、温人は勇士郎の住所を彼らに手紙で伝えてあったのだ。
それを明日香が訊き出して、今日ここへやって来たということなのだろう。
突然の訪問者に戸惑ってはいたが、それ以上に、彼女が温人を呼び捨てにしたことにショックを受けていた。幼馴染だと言っていたが、明日香は温人の元恋人なのかもしれない。
長くまっすぐな髪に、白く張りのある若い肌、派手ではないが丁寧に化粧された顔はとても愛らしい顔立ちだ。女性らしい女性、という感じがして、勇士郎は自分よりずっと若く、魅力的な女性を前に、強い劣等感を覚えた。
なにより彼女は非常に肉感的だった。本人はそれを強調しているつもりはないのかもしれないが、薄く柔らかそうなベージュのサマーニットは、彼女の胸の大きさを十分に悟らせ、半袖から伸びた腕や手も白く、とても柔らかそうだった。綺麗に塗られた薄いピンクのマニキュアも、彼女の女らしさを存分に引き立てている。
勇士郎はゲイなので、そんな彼女を前にしても欲望を覚えることはないが、普通の健康な男が見れば、彼女はさぞ魅力的に見えるだろう。
「ほんとに図々しいとは思ったんですが、おばあちゃんからその手紙を見せて貰ったんです。それを読んで、どういった経緯から温人が高岡さんのお宅に住まわせてもらうことになったのかは大体分かりました。温人は心配かけたくないってタイプなので渋ったと思いますが、高岡さんが連絡するように勧めてくださったんですよね、きっと」
「はい、やはり居場所だけは、と思いましたから」
答えながらも、明日香が温人の性格をよく把握していることに、また苦しいような気持ちがこみ上げる。
「随分、親切な方なんだな、と思いました。赤の他人を部屋に住まわせるなんて」
どこか含みのある言葉に、勇士郎の胸がひやりとする。もしかして、二人の関係を勘繰られているのだろうか。
「それは、……迷いましたけど、とても弱っているようでしたし、放っておいたら、そのまま公園で……」
「ありがとうございます。高岡さんには温人のおじいちゃんもおばあちゃんも本当に感謝していました。今日も一緒に来れたら良かったんですけど、少し体調を崩していて」
「そんな、オレは大したことしてないですし、おばあ様からも丁寧なお手紙を頂いてますから。それに、温人君がいてくれて助かることもたくさんあるんです」
そう言いながら、勇士郎は少しずつ落ち着かなくなってきた。元々こういう不意打ちには弱いのだ。相手が何を言うために来たのかが判らないために、いっそう不安になる。
「――温人の、家族のこと、ご存知ですか」
明日香は少し声を低めて突然訊いた。
「あ、……はい」
「そうですか。高岡さんには、ちゃんとお話ししてたんですね。……温人には、萌っていう妹がいて、今生きてたら、今年二十歳だったんですけど、私、萌ちゃんと親友だったんです。私の方が二つ上だけど、すごく気が合って、いっつも一緒にいました。だけど、あんなことになって……」
「……」
「一度も、泣かなかったんです、温人」
「――え」
「彼があのことで泣いたの、私見たことないんです。でも、心の傷が相当深いことは判りました。ずっと見ていたし、好きだったから」
明日香はどこか挑むような目で、勇士郎を見つめた。心臓がきゅうっと引き絞られるように痛んで、勇士郎は無意識にみぞおちの辺りを手で押さえる。
「お気付きかと思いますが、私と温人はつきあってました。私から強引に迫ったんです」
今度はハッキリと鋭い痛みが胸を貫いた。
(そっか、やっぱ、……そうやよな)
強引に迫ったと言っても、こんな綺麗な子に好きだと言われたら、男なら悪い気はしないだろう。
温人と明日香が寄り添っている姿を想像するだけで、苦しくてたまらなくなる。
「私は傷ついた彼の心を、少しでも癒したいと思っていました。温人は…、とても優しかったです」
勇士郎は目を伏せ、唇を噛んだ。
何故、明日香は自分にそんな話を聞かせるのだろう。
胸の痛みがどんどんひどくなってゆく。
「このひとと結婚したい、本気でそう思っていました。……でも、そのうち気付いたんです。温人の心の中には、私がいないってことに。温人はほんとに優しかった。でもそれは、私を愛していたからじゃない。私が温人を好きだと知っていたから、なんです」
勇士郎は思わず顔をあげて、明日香を見つめた。
「どういう、意味ですか」
「温人は、人の気持ちに人一倍敏感です。だから相手が何を求めているのか、すぐに判ってしまう。まるで自分のことのように」
「ああ……」
勇士郎は明日香の言わんとすることが判って、うめくように言った。
「さすが、脚本家さんですね、すぐにわかってしまうなんて」
明日香は寂しげに笑う。勇士郎は遣り切れないような思いで、明日香をぼんやりと見つめた。
温人は誰の気持ちも理解できる。そして優しい。だからめったなことでは相手を否定したり、非難したりはしない。受容性があるから人を拒むことも少ない。恋人のような深い仲になることもあるだろう。
だがそれは必ずしも、彼自身の望みであるとは限らない、ということだ。
つまり温人は、明日香の願いを知り、それを叶えようとしてあげた、ただそれだけのことだったと、明日香は言っているのだ。
そう気づいたときの明日香の惨めさはどんなものだっただろう。そう思うと、さっきまでとは違う胸の苦しさがこみ上げて来る。
振り返ればいくらでもそんな場面があった。温人との生活が心地良かったのは、彼が勇士郎と、勇士郎の生活を丸ごと受け容れてくれていたからなのかもしれない。
ただの同居人なのだから、それでいいはずだ。うまく行っている生活を、素直に喜べばいいのだ。
なのに全てが虚しい幻だったかのように思えるのは何故だろう――。
「結局、私は彼に愛されていないことに疲れて、自分から離れていきました。温人は何も言いませんでした。詰ってもくれなかった」
一瞬、明日香が泣くのではないかと思ったが、彼女はかすかに眉を顰めただけで、すぐに顔をあげた。
「それでも彼が心配だという気持ちは残ってたんです。今回見せてもらった温人の手紙には、あなたのことを、凄く優しくて、信頼できるひとだと書いてありました。人気の脚本家さんだけど、全然偉ぶってなくて、面白い話をたくさんしてくれる。自分の事情を知ったら、すごく親身に色々考えてくれて、本当に思いやりのある、素敵なひとだと」
「え……、」
「温人がそんな風に誰かのことを褒めたり、好意を持って熱く語ったりするのを見たことがなくて、もしかして、本当は女の人なんじゃないかと思いました。温人には本当に好きなひとが出来たのかもしれないって」
「……いや、そんな……」
「それで、来てみたら、女の人じゃなくて、本当に男の人だったけど、……でも、温人があなたに惹かれるのも判ると思いました。突然来た私を適当に追い返すことも出来たのに、あなたはこうして私の話をきちんと聞いてくれている。誠実で、頭が良くて、おまけにとっても綺麗。……びっくりしちゃった」
「え、でも、そんな、温人とオレ…は、別に」
ドキンドキンと忙しなく鼓動が鳴っている。
「違うんですか?」
明日香がまっすぐに、射るように勇士郎を見つめる。その目に捕まって、勇士郎は力なく目を伏せた。
「オレ、はともかく……、温人は、誰にでも、きっと」
「そうですね、さっきも話した通り、温人はかなり優柔不断なとこあります。でも、あなたは特別なんじゃないかなって、思いました。あなたが温人の相手だったらいいのに、って思いました」
「え……」
「でもそれは、あなたが女の人だったら、という話です」
その瞬間、ざーっと全身の血が引いてゆくような気がした。一瞬でも高揚した気持ちが、木端微塵に打ち砕かれる。
「すみません。差別に聞こえるかもしれませんね。実際、差別なのかもしれない。自分がどれだけ不躾なことを言っているのかはちゃんと判っています。……だけど、温人には家族が必要だと思うんです。彼の家は、本当に、とっても仲の良い家族でした。それが突然あんな風に奪われてしまって――」
そこで初めて明日香は涙を滲ませた。
「温人には温かい家族を、もう一度取り戻して欲しい。だけど、あなたとでは……」
明日香は顔を歪ませ、俯く。
勇士郎はテーブルの下で組んだ手を、強く強く握りしめた。爪が食い込むほどに、強く。
「ほんとに、温人のことを、想ってるんですね……」
「――すみません」
「あなたが謝ることなんか、なにもないです。あなたは、きっと正しい」
勇士郎が掠れる声で静かに告げると、明日香はさっきまでの毅然とした表情をすっかりなくして、潤んだ目をそっと伏せた。
「もしかして、あなたは今も、」
勇士郎が尋ねると、明日香は弱々しく笑って首を横に振った。
「今はもう、別の恋人がいます。……優しくて、私だけを見てくれる人です」
「……そうですか」
それきり二人は口をつぐみ、冷めたコーヒーを飲み干すと、店を出て、短い挨拶を交わしてからすぐに別れた。
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