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【8】もう一度踊るために②
温人から手紙とレコードが届いた日の翌日、勇士郎は都内のダンススタジオを訪れた。
マダム・ノワール役の辰己鏡子が、タンゴレッスンをしているので見学してみないかと河合から勧められたのだ。話は通されているらしく、勇士郎はすぐに見学を許された。
広いスタジオ内には辰己鏡子の他に、ダンス講師やそのほかのダンサー、ドラマのスタッフやマスコミ関係者と思われる人々が集まっていた。
初めて生で見る辰己鏡子は、履いているヒールのせいもあると思うが、とても長身でスレンダーな体つきをしている。
露出度の高い、稽古用と思われるドレスを着ていたが、引き締まった身体からはしなやかな獣を思わせる圧倒的なパワーとオーラが感じられた。さすが大女優だ。どこにいても、周りの人間から、彼女だけがパアッと浮き上がって見える。
しかし勇士郎が本当に驚かされたのは、そのあとだ。タンゴの名曲がかかり、相手役の男性講師と吸い付くように身を寄せた瞬間、彼女の顔つきが変わった。
とても還暦を過ぎているとは思えない、キレのある動きと、躍動するステップに、勇士郎は鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
パートナーとぴったり沿ったままのステップから脚をクロスさせ、絡め、跳ね上げる。腰から下を回転させ、そこからの速いステップはフロアを駆けるように移動し、複雑なターンののち、ぴたりと静止してのけ反る。
流れるように、もつれるように展開するダンスは、男女の心の機微を示し、その完璧な動きによって見る者を激しく魅了した。
ステップだけではない。辰己の眉を顰めた切なげな表情は、女の情念と哀切を表し、官能的としかいいようがない。
彼女は今、本当に自分が往年のタンゴダンサー、マダム・ノワールだと信じて踊っているのだ。
これがプロの仕事なのだと、勇士郎は強い感銘を受けた。
「あの、タカオカ先生ですよね、脚本の」
呼びかけられて振り向くと、小柄な四十代くらいの男性が、にこにこしながらすぐ傍に立っていた。
「はい」
「私、辰己鏡子のマネージャーをやっております、宮澤 と申します」
相手が名刺を差し出したので、勇士郎も慌てて名刺を出し、挨拶をしながら交換をした。
「ウチの先生、今回もう、かなり気合入ってるんですよ!」
宮澤が踊る辰己の方を見ながら、嬉しそうに言う。
「はい、僕も今見学させてもらってびっくりしました。ほんとに…、凄いです」
勇士郎も改めて彼女のダンスを見つめながら、興奮ぎみに告げた。
「でもね、ここまで来るのに、実は相当転んでるんですよ、先生」
「え」
「あの高いヒールで踊るっていうのは、想像以上に大変らしくて、レッスン始めた当初はしょっちゅう転倒してました。身体なんかアザだらけです」
「――そうなんですか」
「はい。あの大女優、辰己鏡子が、若いスタッフたちの前で、みっともなく転ぶんですよ、何度も何度も。でも言い訳ひとつしないです、あのひと。すぐに立ち上がってまた再開するんです。私、それ見た時、一生このひとについていこうって思いました」
誇らしげに彼女を見つめる彼の気持ちが痛いほどに伝わってきて、勇士郎の胸も俄かに熱くなった。
どこか不遜にも見える、女王のような普段の立ち居振る舞いは、こうしたたゆまぬ努力と、妥協を許さぬプロ根性に裏打ちされた、彼女の、女優としてのプライドの表れなのだと知る。
「……カッコいいですね、本当に」
「はい!」
勇士郎はふいに胸が苦しくなって、辰己を見ながら目を瞬かせた。自分が作り出したキャラクターに、大女優が全力で向き合ってくれている。何度転んでも、そのたびに起き上がって。
(それに比べて、オレはなんて情けない)
傷つくことを怖れて、いつでも逃げてばかりいた。転ぶことを怖れて、二度と踊れなくなったダンサーのように。
「これ、辰己先生にお渡しいただけますか」
持ってきた差し入れを宮澤に渡す。
「ご挨拶をしようかと思っていたんですが、このダンスを見ていたら邪魔したくないと思ってしまいました。今回お引き受けくださったこと、心から感謝しております、とお伝えください」
勇士郎の気持ちが解ったのか、宮澤も差し入れを快く受け取り、オンエアを楽しみにしています、と言ってくれた。
スタジオを出ようとしてふとフロアの奥で辰己のダンスを見ている青年の姿に気が付いた。間仕切りのカーテンの端を掴むようにして、熱心に彼女のダンスに見入っている。
地味で大人しそうな彼の姿が、まるでドラマの中でマダムのダンスをこっそり見ているソウタのように見えて思わず足を止めた。
そして次の瞬間、それが英圭吾だと気付き、仰天する。
(え、ほんまにアレ、英くん、か……?)
あんなに派手で華やかな顔立ちの青年が、今は見た瞬間から忘れそうな地味な顔立ちに見える。誰も彼の存在には気付かない。
もちろんその造作は変わっていないのだが、纏う雰囲気やその表情が、英圭吾とは別の青年だとしか思えないのだ。
これが彼の、役へのアプローチなのかもしれない。
いまステージで踊る辰己鏡子が、マダム・ノワールになり切っているのと同様に、英も、十五年間引きこもったソウタという青年として、今ここに居るのだ。
(ほんまに凄い――)
二人の役者の、プロとしての真摯な姿勢に、言葉に出来ないほどの感動を覚える。
必ず良いホンにしなくてはならないと、勇士郎は強く思った。
そしてこの仕事を無事に終えたら、温人に逢いに行こうと思う。
今、もしかしたら、温人のそばには別の誰かがいるかもしれない。そうだとしても構わなかった。
逢って、この気持ちだけは伝えたい。
勇士郎は初めて、強い気持ちでそう思った。
その夜から最終稿の仕上げに入った。
勇士郎は赤いチェアに深く腰掛け、目を閉じて、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
それから静かにキーボードの上に指を置く。
その人が生きてきた時間すべてが、その人を作る。けれどそれはまた別の時を重ねることで、変わることも出来るはずだ。
この旅はまだ終わらない。何度でも迷えばいい。それが生きている者の特権だ。
逃げずに探し求め続ける限り、新たな道は開かれる。
そんな想いを込めて作品と向き合い、二日後の眩しい朝陽が昇る頃、最終稿を脱稿した。
勇士郎は心地よい疲れとともに少し笑ったあと、意識を失うようにベッドに倒れ込んだ。
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