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第17話 赦される

「レニュに行くぞ」  俺はマスカード城で、執務中のハンローレンにそう宣言した。  俺は記憶をつなぎ合わせ得た情報を彼に伝えた。俺の推測が正しいなら、儀式をしながらレニュまで移動できるはずであった。  しかし、彼は首を縦に振らない。  マスカード城からレニュに至るための街道の途中には皇都がある。  街道はすでに封鎖され、武器を持った護衛をつれては通れない。  レニュに行くには、大きく北に街道を逸れ、迂回する道を通るしかない。  北の山ガルデの麓を行く道である。  それは難所が多く、とてもではないが馬車は通れない。  騎乗し、時には馬を引いて、街道を行く二倍の時間をかけてレニュへ行くことになる。  迂回路とはいえ、敵地であることに変わりはない。  正体を隠して動く必要がある。  この危険な旅路に、俺を送り出すことはできない。それがハンローレンの答えであった。  夜通し話し合っても、どうするべきかは一向に決まらなかった。  俺はレニュに行きたかった。行くべきだと思っていた。  このときのために俺が前世の記憶を持ってこの世界に生まれ変わったという気がした。  迂回路は騎乗する必要があるが、俺は前世で馬に蹴られて死ぬくらいの馬好きだ。ひとりでもレニュに行くことができると確信していた。  それに、レニュに行くとギルと約束をしている。    決断するのにためらいはなかった。  二度目となれば、お手の物である。  俺は納得したふりをして寝室に戻ると、侍従たちに部屋から出るようにいいつけた。  そして、畑仕事のときに着る農夫の服に着替えた。あとは手早く金銭に変えられそうなものをかばんに詰め込んで、窓からロープを投げた。  ――出奔するのである。  幸か不幸か、この頃は体調を崩すものが多く、監視は手薄である。  俺の服も、目立たずに移動するのに最適であった。  そうしていくつかの壁を越え、そしていよいよ門外、というときになって、俺は呼び止められた。 「どこに行くんですか」 「……ハンローレン」  その人はフードを深くかぶっているが、その声で誰であるのか、すぐにわかった。  表情までは読み取れないが、状況から察するに、彼が怒っていることはわかる。 「なんで?」 「あなたの考えそうなことなど、お見通しです」  そう言われて、俺はうなだれる。  ハンローレンが詰め寄ってくる。 「それにあなた、聖水と馬はどうするつもりなんですか」 「どうするって……」  考えていないことはない。儀式は中止するつもりだし、馬は出たところで買うつもりだ。そのために部屋にあったいくつかの宝飾品を持ってきていた。  しかし、俺のその行き当たりばったりな計画はハンローレンに鼻で笑われた。 「うまくいくわけないでしょう」 「いや、でもさ」  俺が何か言うより早く、ハンローレンが言った。 「聖水を準備します」 「え?」 「馬も城の外に用意させているところです」 「ええ?」 「ど、どうやって」 「これでも、まだ私は大神官です。聖水は私の管理下にあるものです。……馬はあなたのご両親が」 「ええ!?」 「彼らもあなたが出奔するだろうと見越していました」  今度こそ、俺は仰天した。  両親にまで、俺の出奔がばれていたとは思いもよらなかった。  ハンローレンは、俺を睨んだ。 「あなたの考えなんて、お見通しなんですよ。……次は、おいていくことは許しませんよ」 「え、ま、まさか」 「私も行きます」  まるで幼子が置いていくなとぐずるように、唇を尖らせて、彼はそう言った。 *  こうして俺たち2人は、ハンローレンの直属の護衛兵4名だけを連れてマスカード城を出た。  馬は7頭だ。6頭は人間を乗せ、1頭は荷物を運んでいる。  小隊は、静かに、ガルデの山影を目指して進む。  月明かりの日であった。  俺の1回目の出奔もこんな夜だった。  あの時はこれからはじまる旅に胸を高鳴らせ、しかし同時に孤独であった。  いまとは真逆である。 「本当にいいのか?」  尋ねる俺に「城には身代わりを置いておきます」とハンローレンはこともなげに言った。 「そこまでしなくても、ちょっと行って、すぐに戻るつもりだったのに」 「次に置いていかれたら舌を噛み切って死にます」  彼は頑迷だった。  彼は俺のとなりを進む。  背筋を伸ばして馬の手綱を引くその姿はなんとも麗しい。  彼はふいに、後ろを進む馬に目をやった。 「本当に、大丈夫なんですか」  その馬は背に荷を乗せている。荷の中身は聖水である。  彼は、神殿を離れても聖水の力が保たれるのかどうかを気にしているのだ。 「絶対大丈夫だよ」  俺はそう保証した。  あの時、川に落ちた俺が思い出した、中3のときのプールの記憶。  水、光、そして「匂い」だ。  俺はハンローレンにすべてを伝えるか悩んだ。  実は、聖水を持ち運べることは伝えたが、聖水の正体は伝えていなかったのだ。  何度か馬の嘶きを聞いたあと、俺は口をひらいた。 「あの聖水の正体がわかったんだ。あれ、次亜塩素酸ナトリウムだよ」 「じあ……?」 「プールに入れる、消毒薬。濃度が高ければ、当然痛いし、髪も脱色される」 「……」 「それに、不安定な物質だから、空気に触れていれば勝手に分解される。だから、こうしてワインの瓶に入れて密閉して運べば大丈夫なんだよ」  彼は何も言わない。  ただじっと前を見据えている。  俺はそんな彼を覗き見た。 「なんか、聞きたいことないの?」 「何を聞けばよろしいのでしょう?」 「なんで俺がそんなことを知ってるのか、とか」 「聞かれたら、あなたが困りませんか」  言われて、俺は思わず笑ってしまった。 「ハンローレンって、ほんとうにいい奴だよな」  よく気がまわる、というか、なんというか。  聡い、という表現がいいのかもしれない。  だからこそ、もう隠しきれないと思った。 「俺、前世の記憶があるんだ」 「……前世、ですか」 「あ、異教徒とか、異端とか、そんなこと言わないでくれよ」  俺が慌てて言い足すと、彼はため息をついた。 「言いませんよ」  あまりにもあっさりとそう言われて、俺は拍子抜けする。 「あ……ありがとう」  遠く、東の空がわずかに白みを帯びてくる。  夜明け前特有の、生ぬるい風が吹く。  太陽が昇る。  俺たちはしばし薄明の中をただ黙って進んだ。 「それで、なぜ今になって私にそれを打ち明けてくださるのですか」  唐突に、ハンローレンが尋ねた。  そのスミレ色の瞳には、忌避の色はない。ただ、俺にまっすぐと向けられている。 「信じてほしくて」  ハンローレンの目が細められる。俺は続けた。 「俺がこの記憶をもってこの世界に生まれたのにはきっと意味があるって。――きっと、何もかもうまくいくって、信じてよ」 「あなたを疑ったことなど、ありませんよ」    銀の髪に黎明の空を映して、ハンローレンは笑った。  その言葉に、知らず、涙がこぼれた。  俺はずっとひとりぼっちだった。  この世界で、ただ一人だけ奇妙な記憶を持った、異端の存在だった。  何をしても現実味がなくて、ゲームの中にいるみたいだった。  だから平気で出奔できるし、行き倒れてもへらへらしていられた。  それが、いまひとりではなくなったのだ。  まるで、この世界にいてもよいのだと、許されたようだった。

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