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第28話 変わるもの
吹雪で殊更に冷えた日、俺は医師からついに快癒を告げられた。
床払いである。
俺の治療のために寝室に運び込まれていた物品類はお役御免となった。
代わりに、寝室と廊下を挟んで向かいにある部屋に、聖水を入れた瓶と桶、それから聖水を洗い流すためのバスタブが運び込まれてきた。
――儀式を再開するのである。
「ほんとうに、もう始めるのですか?」
運び込む侍従たちを眺めながら、ハンローレンが尋ねる。
彼はこの俺の決定にいい顔をしていない。
継承争いの相手が失脚した今となっては、儀式を急ぐ理由はないのだ。
それこそ、皇都の大神殿に戻れば温泉がある。
そこでゆっくりと儀式を行えばいい、というのがハンローレンの主張である。
俺は心配しなくていい、という意味を込めてハンローレンの肩を叩いた。
「ちょっと試してみたいことがあってさ」
「試したいこと、ですか?」
「うん。大神殿に戻ったら、またあの仰々しい雰囲気で儀式をすることになるかもしれないだろ? だから、ここでやっておきたくて」
聖水の瓶を手に取る。
塩素ガスが充満した地下倉庫は、その後封鎖され、そこに置かれていた聖水も取り出せない状況だ。
いまある聖水はすべて新しくマスカード城から送ってもらったものである。
大雪の中何度も使者は来ることができない。
聖水は大事に使わなければならないということはわかっている。
しかし、好奇心は抑えられないのだ。
「俺の記憶が正しければさ、塩素ガスを浴びたとき、俺の髪が白くなったんだ」
「……ああ、そういえば……私はてっきりあなたが禊を終えた後なのだと思っていましたが……」
「ううん。俺、禊で使う聖水がなくて、それであの地下倉庫に行ったんだ。なのに、禊終わりみたいに白くなった。しかも、そうなったのは俺だけだ」
髪はその後、喉が回復して祝詞を唱えるまでずっと白いままであった。
それを見て、俺はとある仮説を立てたのだ。
俺は聖水の瓶を開ける。
瓶の中からあの特有の鼻奥を刺す臭いがする。
「つまり、これは塩素ガスになったとしても、聖水としての効果があるってことだ」
「まさか、またあの煙をつくるなんておっしゃいませんよね?」
ハンローレンが俺に疑いの目を向ける。
俺は苦笑した。
「そんなことはしないよ。でも、禊に次亜塩素酸ナトリウムを使う必要がないのかもしれないって思ってるんだ。それを確かめたい」
「と、いいますと?」
「次亜塩素酸ナトリウムって、自然には存在しない物質なんだよ。無理やり元素をくっつけてできるんだ。だから、放っておいたら分解される」
俺は桶に聖水――次亜塩素酸ナトリウムを出した。
次にキリルたちに頼み、次亜塩素酸ナトリウムを水で薄める。
濃度は適当だ。
しかし、この刺激臭がある方がわかりやすくていい。
俺は続ける。
「具体的には、次亜塩素酸ナトリウムが空気中に酸素元素を放出する。つまり、2NaClOからO2を失って、NaClだけが残る」
「えぬ……?」
「NaCl。つまり、塩だよ、塩」
俺は桶のふちを叩いた。
「こうやって置いておけば、何日か後には塩水ができるってわけだ。――それでも聖水としての力を持ってる可能性がある」
「ええ?」
ハンローレンが素っ頓狂な声を上げる。
俺は大まじめに頷いた。
化合させてうまれた塩素ガスでも聖水の力があるのなら、分解させてうまれた食塩にもその力があってしかるべきである。
「神殿地下から採取してすぐじゃないと聖水の力がないって、前ハンローレンは言ってたけど、あれって、この臭いが消えているから、そう考えられただけじゃないかな」
俺が言うと、ハンローレンは唸った。
「それは……私にはわかりません……」
「まあとにかく数日置いてみよう。で、この匂いが消えて、しょっぱくなった頃に禊に使えば答えがわかるはずだ」
ハンローレンは信じられない、と言った様子で天を仰いだ。
数日後、俺の仮説は正しかったことが証明された。
次亜塩素酸ナトリウムを薄めた水は、塩水となったあとでも聖水として俺の髪を白く染める力を持っていた。
俺は髪が白くなるのは次亜塩素酸ナトリウムの脱色作用によるものだと考えていたが、塩水でも同様の現象が起きたことで、染髪が「神の奇跡」であることを理解せざるを得なかった。
最初は半信半疑だったハンローレンも、この事実を見せてからは諸手を上げて次亜塩素酸ナトリウムの食塩水化を推奨した。
これによって、俺はもう激臭に耐える必要も、刺すような痛みに耐える必要もなくなった。
そう、これは俺の禊生活に大変革をもたらす発見であったのだ。
それ以来、俺の儀式はこの上なく順調に、かつ心穏やかに進められた。
塩水を頭からかぶって、それを洗い流して、祝詞を唱えるだけだ。
俺のQOLは爆上がりだ。
その後も、せっかくだから後世のためを思って、いろいろ検証をした。
次に俺が検証したのは、食事制限である。
1日ごとに麦、豆、粟、きび、ひえ、それから豚肉、魚……と食べてみて禊を行った。
結果としては、どれを食べても禊で髪を染めることができた。
俺はいよいよ舞い上がった。
俺はハンローレンに頼んで慰労を兼ねてパーティーを開いた。
冬でやることのない農民たちも招待した。
俺たちは朝まで好きなだけ大騒ぎした。
――そうして飲み食いした日、禊は成功しなかった。
ハンローレンはあきれ顔であった。
「神に帰依する心が足りていないんですよ」
「……そりゃあ、帰依した覚えがないからな」
俺は反論する。俺は異世界人、食事の前に「いただきます」と言う異教徒だ。
豊かな食生活をあきらめられない俺は次の仮説を立てた。
そして、幾度かの試行の結果、その仮説の正しさが証明された。
俺はハンローレンに胸を張って結果を伝えた。
「つまり、食べる量だ」
「量、ですか」
食べる量が少なければ、禊は成功する。
一方、多ければ、失敗する。
「五穀を絶つ」「肉を絶つ」というのはデータが少ない中で先人たちがたどり着いた結果なのだ。
しかし、なぜ食べる量なのか、俺は首をかしげた。
「なんでだろ?」
「神の心を、我々凡人は知るよしもありませんよ」
「うーん。もうちょっと調べれば……」
唸る俺を見て、ハンローレンは苦笑した。
「まったく、あなたには勝てませんよ。でも、そこそこにしてください」
頬を撫でられる。
俺が目を向けると、ハンローレンが目を細めてこちらを見ていた。
「もうじきに、雪が溶けます」
「あ……」
「雪が溶ければ」
ハンローレンはそれ以上は言わなかった。
しかし、俺にもわかっている。
雪が溶ければ春が来る。
俺たちは皇都へ向かう。
ハンローレンが即位するのだ。
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