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第29話 先祖のこと

 楽器隊が明るい音楽を高らかに奏でる。  人々はわっと歓声を上げ、中心を通る兵士たちに花を捧げようと手を伸ばす。  馬は蹄の音を立てて歩き、騎乗する兵士たちもいつもより念入りに髭を剃り、髪をなでつけている。  人の数も歓声の熱量も、旅が進むにつれどんどん大きくなっていった。  ハンローレンが皇都に凱旋を決めたのは雪がまだ残る頃だった。  レニュ穀倉地帯には続々とハンローレンを支持する貴族たちとその配下が集まってきていて、大規模の宿泊施設がないレニュは大混乱に陥っていた。  それを見たハンローレンは配下に揃いの服を与えると、すぐに隊列を組んで出発した。  隊列の先頭はハンローレン、そして中心に俺だ。  俺は兵士たちに前後を守られながら道を進む。  俺が乗せられたのは屋根のない大きな馬車で、8頭の馬がそれをひいている。  民衆が俺に向かって「賢者様!」「キフェンダル様!」と呼びかけるのを、最初はこわごわと聞いた。しかし、それも皇都に入る頃にはすっかり慣れ、手を振り返す余裕さえできた。    皇都の通りに面した家の窓は飾られている。  その窓から花びらが降って来る。  俺はそれを見上げて、RPGの最終回みたいだ、と思った。  隊列は大神殿の前でとまる。  神官たちが大神官であったハンローレンの帰還を言祝ぐ。  ハンローレンは馬からマントをひるがえして降りると、俺の馬車へと歩み寄った。 「さあ、こちらに」 「降りるの?」 「ええ」  侍従たちが俺の長い裾を持ち、地面に広げる。  頭を覆うベールと、引きずるマント。  白の絹をふんだんに使ったその衣装は、いわゆる婚礼衣装であった。  同じく白い衣装――こちらは俺のものよりも裾が短い――を纏ったハンローレンに手を引かれて大神殿に入る。  大神殿の中にはすでに多くの貴族が立ち上がって待っていた。  俺たちはその中心を歩く。  外の明るい音楽とは対照的に、室内には荘厳なパイプオルガンの音が響いている。  ――俺たちはいよいよ結婚するのである。  ――俺の儀式の完了が告げられたのは、レニュ出発の少し前のことであった。  ハンローレンは朝起きてきた俺を見て「ああ、終わったんですね」と告げた。  俺は最初、何のことかわからなかった。  ハンローレンは続けた。 「我々の同胞となったのです。神の眷属に」  続く彼の説明によると、神の眷属になったというのは、皇族から見ればすぐにわかるのだという。  第一皇子と俺が婚約していたとき、ハンローレンが俺の儀式の補助についていたのは、俺の儀式完了を彼が見極めるためだったのだという。    俺は自分の足を見て、手を見て、首をかしげる。 「変わったか?」 「ええ」  ハンローレンは自信ありげだ。  俺は半信半疑であった。しかし、すぐにその意味がわかった。  俺の体は変わっていた。  ずっと塩素ガスの後遺症で話しにくかった喉は何の苦もなく声を出せるようになった。  体は軽く、目はどこまでも遠くを見ることができた。  そして、もう一つ。 「……思い出せる」  俺はつぶやいた。  前世の記憶が鮮やかによみがえってきたのだ。  あいまいだった――俺の名前――まではっきりと思い出せる。  この変化が何を意味するのか、俺にはよくわからなかった。  しかし、これで俺という存在が「神の眷属」に生まれ変わったということだけは理解した。  そうして、いまこうして結婚式を挙げるにいたったわけである。    ハンローレンの跡を継いで大神官になった男が、俺たちの結婚の宣誓を読み上げる。  そして、同意する場合は沈黙でもって答えるようにと言い渡す。  俺たちはその宣誓に沈黙でもって答えた。  その沈黙は一瞬であったが、それでも俺には永遠に感じた。  脳裏には俺の人生がうつった。  死、転生、婚約、婚約破棄、それから畑の賢者としての人生、そしてハンローレンとの再会――。  顔を上げると、ハンローレンと目が合った。  彼は静かに俺のベールを上げる。  彼の手が俺の頬に触れ、そして唇が重ねられた。  この瞬間、俺たちは正式に結婚を認められたのである。 *  大神殿の最奥には主神モアデルスを模った像が安置されている。  その像は厳重に鍵がかけられた扉の奥にあった。  モアデルスは偶像崇拝を禁じ、この像を見ることを許されるのは皇族だけであった。  いま、皇族となった俺は初めてその神の姿を見た。  結婚の挨拶をするために謁見する、ということで俺はさんざん作法を練習してきたというのに、そんなものすっかり頭から抜け落ちるくらいの衝撃であった。 「――侍?」  それが、その像を見た俺の最初の感想だった。  モアデルスは右側が男で左側が女であると言われていた。  しかし、その像を見た俺の感想は、どちらも男である。 「左側、侍に見えるんだけど……」  左側の頭は剃られ、侍らしく髪が結われている。そして着物と袴を着ている。  右側は神官たちが着ている足元まである衣装だ。 「さむらい?」  ハンローレンが尋ねる。  彼にとっては耳慣れない言葉だったようだ。 「違うの?」 「さて?」 「ハンローレンのご先祖様なんだよな?」 「ええ」 「その神様が、あっちの人間と、こっちの人間の間の存在ってこと?」  わざわざ体の右側と左側で異なる衣装と髪で作られた像が意味すること。  俺は急速に頭が回転するのを感じた。  あちらの世界にしかないはずの次亜塩素酸ナトリウム、こちらの食べ物を減らす行為、そしてそれにより体が神の仲間になる――この世界とあちらの世界の間の存在になるということ。  俺は口を開く。 「俺がいまから言うのって、おかしなことかもしれないんだけど……こっちの世界で生まれた人間が、あっちの世界のものに触れて、こっちの世界のものを体の中に入れないようにして……儀式って、そうして間の存在をつくるってことか……?」  そう考えれば、おかしな禊と、おかしな食事制限の意味が通る気がした。  どんどん黒くなる髪と瞳も、あちらの――日本人に近づいていると考えれば――。  そうだ、塩素ガス――聖水を吸い込んだとき、俺はあちらに近づいていたじゃないか――。  あちらのものを食べなかったことで、俺はこちらに戻れた――。  それらはすべて推測でしかない。  しかし、それは正解であるように思えた。  俺は主神モアデルスを見つめた。  俺の心の中では、その像が俺に、転生者である俺に彼が何か特別に話しかけてくれるのではないかと期待した。  しかし、そのような奇跡は起きなかった。  俺はハンローレンに促されるまま、主神モアデルスに結婚の報告をした。  たどたどしい作法でようやく報告を終え、部屋を出る。  主神モアデルスは沈黙したままであった。

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