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第二話
麻耶は重たい溜め息を吐いて、手元の雑誌を床に置いた。ピンク色のカーペットの上にレースのついたクッションがベッドにたてかけられている。そのクッションを胸に抱き、すうと匂いを嗅ぐとラベンダーの香りが鼻孔を擽る。
鼻を擦りつけラベンダーの芳香をめいいっぱい吸い込むと、ささくれだった気持ちが和らいでいく。
床にゴロンと寝転がり、部屋を見渡す。天蓋のついたベッドや薄いピンクに塗り替えた壁、棚に飾ってあるぬいぐるみやラウンデルの小物の数々。
男子高校生の自室にはあまりにも似つかない内装だが、麻耶はこの部屋にいるときが一番落ち着いた。
ワンピースの裾が捲れていることに気付き、剥き出しになった男らしい骨格が目に飛び込んできた。汚いものをみたように手早く裾を直した。
「なんで俺……こんななんだろう」
麻耶は小さい頃からぬいぐるみや人形遊びが好きだった。同世代の男の子たちは外で駆け回り忍者ごっこをしているのを尻目に、部屋に籠もり、ぬいぐるみ遊びやままごとをしていることの方が多かった。
男である自分が女の子っぽいものを好きなのは間違っている。いつかは決別しなければならないと思いながらも、ぬいぐるみやキラキラとした化粧品たちを前にすると、その決意など簡単に折れてしまう。
女装をするようになったのは、自分への戒めのつもりだった。オマエは男なんだと似合わない女装を目の前にしてわからせるつもりだったのに。その考えこそがいけなかったのだと気が付いたのは、随分経ってからだ。
家に帰り、制服から部屋着に着替えるときはワンピースを着るようになった。男子を示す制服を脱いだときの解放感が堪らない。ワンピースに袖を通すと、これこそが人類が着るべき相応しい服装なのではないかと思ってしまう。
かわいいものに囲まれ、お気に入りのワンピースを着てたまにメイクをして。そんな時間が麻耶にとってかけがいのないものになった。
人には言えない趣味。
もう誰にも傷つけられないために、人と深く付き合うのはやめた。
それなのに。
脳裏に犬によく似た後輩の顔が思い浮かぶ。
ニコニコと笑顔を絶やさず、構って欲しいと甘えてくる。背が大きく、和音より一回り小柄な麻耶は抱きつかれるたびに息苦しくなる。
それでも下手に構って、これ以上懐かれてしまっては困る。女装趣味な変な男とバレて言いふらされたくない。
「麻耶、入るわよ」
遠慮がちなノック音と共に、母親の佳恵がドアの隙間から顔を覗かせた。麻耶の服装をみて一瞬目を瞠ったが、それもいつものことだ。
「……なに?」
「悪いんだけど牛乳買ってきてくれないか
しら?切らしたの忘れてて」
佳恵は麻耶と目を合わせると気まずそうに、視線を彷徨わせた。息子が女装趣味でさぞ恥ずかしいのだろう。もう慣れてしまったと思っていたが、佳恵の落ち着かない素振りをみせられると瘡蓋から血が滲むような痛みが胸に浸透する。
「わかった」
「ごめんね、こんな夜中に。お父さん、コーヒーにミルク入れないと飲めないでしょ? まったく子どもみたいなんだから」
取りつくような佳恵の言い訳に、麻耶はきゅっと眉間を寄せた。
無理して会話しなくていいのに。こんな息子で恥ずかしいと思っているんだろ?
「じゃあ行ってくる」
佳恵の隣をすり抜けて部屋を出て行こうとすると「忘れ物よ」と手を握られ小銭を渡された。牛乳を買うには十分すぎる大きな硬貨をみて、佳恵はぎこちない笑みを浮かべた。
「余ったお金はお菓子でもジュースでも好きなものを買いなさい。お姉ちゃんには内緒よ」
「……ありがとう」
握りしめた五百円玉は生温かくて、その温もりが佳恵のやさしさだと履き違えてしまいそうだった。
歩いて十分ほどの距離に全国チェーンのコンビニがある。真夜中だというのに目がチカチカするくらいの明るさで、光に集まる羽虫がわらわらと飛び交っている。
暗い住宅街にポツンと浮いているコンビニは近所に住んでいる者としては重宝している。
入り口の脇にある駐車スペースに三、四人の男がたむろしていた。麻耶を視認して、ニヤニヤと口許をだらしがない形に歪める。そこで漸く女装したままの格好で出てきてしまったことに気がついたが、いまさらどうすることもできない。
麻耶はなるべく顔を上げないようにして、コンビニの自動ドアを潜った。
「いらっしゃいませー」
間延びした店員の声が聞こえたが、本人は物陰に隠れているのか見当たらない。周りをざっと見回したが、客は一人もいないようだった。胸を撫で下ろし、麻耶は牛乳が置いてある奥の飲み物コーナーへ向かった。
明るい店内では男が女装しているとわかってしまうかもしれない。襟足より長く伸びた髪は男では長い方だが女ではどうだろう。体型を隠すためのロングスカートも男だと表わしているのではないか。あれこれと考え込んでしまい、結局牛乳だけを手にしてレジへ置いた。
店員は裏の事務所にいたらしく麻耶がレジの前に立つと、数秒とおかずに扉から顔を出した。顔をみられるわけにはいかず、店員の手元に目を向ける。
慣れた手つきでスキャナにバーコードを通し、ピッと軽快な音がなる。
「百八十円でーす」
生真面目とはいいがたい声とは裏腹にテキパキと牛乳を袋に詰めて、おつりを貰う。さっさと帰ろうと踵を返すと、「あ!」と大きな声が背後から聞こえた。
「もしかして麻耶先輩!?」
「え?」
名前を呼ばれ反射的に振り返ると、いままさに麻耶の頭を悩ませている元凶がレジの向こうに立っていた。
「やっぱ麻耶先輩だ!こんなところで会えるなんて偶然ですね」
人懐っこい笑みのまま、和音がこちらに歩み寄ってくる。はち切れんばかりに尻尾が振っているように見え、既視感に眩暈がした。
「あれ、麻耶先輩?おーい」
和音の大きな手のひらが目の前で振られる。
右にいったり、左にいったり。それを目で捉えているはずなのに、麻耶の目には真っ黒な闇が続く。
誰か俺を殺してくれ。
麻耶は逃げ出すように走り出し、自動ドアがゆっくり開くのももどかしく隙間に体を捻じ込ませ外に飛び出した。後ろで何か叫んでいる声が聞こえた気がしたが、それよりも逃げることが先決だ。スカートが捲れているのにも構わず、麻耶は暗闇の中をひた走った。
「はあ……はあ、ふぅ」
一分とも保たずに体力の限界がおとずれ、麻耶は足を止めた。普段運動なんて体育ぐらいしかやらないので、なまっていたらしい。
額にはぐっしょりと汗をかき、まだ五月だというのに暑くて息苦しい。お気に入りのワンピースも汗でべっとりと濡れている。
酸素を供給するため魚のように口をパクパクさせても、一向に吸い込めない。早鐘を打ち始めた心臓も、甲高く鳴り続けている。
なんであそこにアイツがいるんだ。
驚いたような顔をした和音の顔が目に焼き付いている。あんな風に逃げ出したら自分だと教えているようなものだ。
軽蔑されてしまっただろう。慕っていた(とは自分では思いたくないが)先輩が女装して、コンビニに来るところをみたら気持ち悪いと思うに決まっている。侮蔑をはらんだ視線を向けられることを想像し、ぞっと背筋が強張った。
言いふらされてしまったらどうしよう。[[rb鴻崎 > こうざき]]麻耶は女装しているんですよ、と学校中の人に知れ渡ったら外を歩けない。
消えてしまいたい。
せっかく昨日までは普段通りに過ごせていたのに。
涙が零れそうになるのを目に力を入れて堪え、麻耶は顔を上げた。と、麻耶が走ってきた方向から人影がみえ、びくりと体が震えた。
もしかして和音が追いかけてきたのだろうか。
だが走ってくる影は何個もあり、足音も複数
人の音がした。
「あ、よかった。急に走っちゃうから間に
合わないかと思ったよ」
麻耶とは正反対に息のあがった様子をみせない男たちは気持ち悪い笑みを張り付けたまま声をかけた。
暗がりで相手の顔はよくみえなかったが、耳障りな声には聞き覚えがある。
声をかけた男を揶揄する声もよく教室で耳にしたことがある。よりにもよってクラスの連中に声をかけられてしまった。これでもう終わった、と麻耶は絶望に打ちひしがれた。
「こんな夜中に一人だと危ないよ。家まで送ろっか?」
オマエが言うなよ、とゲラゲラと笑う男たちの笑い声が静かな住宅街に響いた。痛んだ髪を指でくるくると回し、いかがわしい視線を寄越してくる。これはナンパされているのか?と余計に頭が混乱した。
相手が麻耶だと気付いていないのか、男たちは猫なで声で畳みかけてくる。
「ほらもうこんな時間だし……それとも家に帰りたくない系? オレたちと朝まで遊ぼうか!」
名案だとばかりに麻耶に声をかけた男はパチンと手を叩いた。それはいいねと後ろの男たちも続く。
麻耶は呆気にとられてしまい瞬きすら忘れていた。はやく逃げるべきだと警鐘は鳴り響いているのに、声を出したら一発で男だとバレてしまう。どうしようと気持ちばかりが焦ってしまい、なにもできずにいた。
麻耶の無言を肯定だと思ったのか、どんどん話が進んでしまっている。
「じゃあ行こっか!」
男の腕が伸び、肩を掴まれそうになる。
身体は硬直したまま動かない。
「……なにしてるんすか?」
獣が威嚇しているような低い声が響き、ピタリと男たちの笑い声は止んだ。顔を上げるとコンビニの制服姿のままの和音が立っていた。
街灯の乏しい明りしかないせいか、和音の大きな体がくっきりと浮かび上がり迫力があった。殺気にも似たギラギラとしたものが瞳に宿り、いまにでも飛びかかってきそうだ。
まるで主人を取られた怒りのような独占欲が滲みでている。
男たちが唾を呑み込む音が聞こえた。それは麻耶も同様で、いま目の前にいる野獣がいつもの和音と同一人物だと到底思えない。
「お、オマエこそなんだよ!」
縮みあがりそうな男は裏返った声で吠えたが、委縮しているのがばればれだ。男たちは数にものを言わせようとしたのか、わらわらと集まりだし和音を見据えている。だが和音の表情は無表情のままで、溢れんばかりの殺気を滲ませていた。
お互い睨みあったまま一言も発しない。冷たい春風が一陣吹き、汗で張りついた前髪を揺らしていく。
麻耶は二組のやり取りを見守っていた。
「もう面倒くせえ。帰ろうぜ」
先に音をあげたのは男たちの方で「覚えてろよ」と負け犬らしい捨て台詞を残してあっという間に去ってしまった。
男たちの後ろ姿が見えなくなるのを確認して、和音はいつもみたいにきゃんと吠えた。
「先輩、大丈夫だった?何もされてない?」
「あ、あぁ」
「よかったー」
ほっと肩の力を抜いた和音はさっきまでの野性的な鋭さがなくなり、よく吠える大型犬に戻ってしまっていた。幻覚でもみていたのだろうかという気にさせられてしまう。
「こんな夜中に一人で歩いてたら危ないよ!めっ!」
子どもを窘めるように人差し指をたて、諭されてしまう。これではどちらが年上かわかったものではない。
麻耶は曖昧に頷くと「よし!」と頭を撫でられた。
「それにしでも、随分かわいい格好してるね。普段そんな感じなの?」
「へ?」
和音の問いに素っ頓狂な声を上げてしまい、自分がワンピース姿なのを漸く思い出した。
ぼっと一気に顔に熱が集まり、男たちのせいでどうしてコンビニから逃げてきたのか忘れていた。
「けっこう似合ってるね。うん。めっちゃかわいいよ」
「かわいい」の一言で、麻耶のこめかみに青筋がたった。俺の気もしらないで。腸が煮えくり返りそうだ。
和音は自分が地雷を踏んだことに気付いていなく、麻耶の服装をみて手放しで「かわいい」「よく似合っている」と連呼した。
ふつふつと怒りが煮えていき、とどめの一言で沸
点に達した。
「女の子の格好してるマヤ先輩もいいな」
「オマエなんて大嫌いだあああぁあ! 」
牛乳が入っているビニールを、和音の顔めがけて振りかざす。牛乳パックがへこむ鈍い音が夜空に吸い込まれていく。
「ぐへぇ!」と和音の情けない声が背後で聞こえたが、麻耶は構わず家へと走った。
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