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第三話

「まーや先輩、ご飯食べよう」  語尾にハートマークがつきそうな上機嫌で和音は麻耶の目の前にコンビニ袋を掲げた。  まるで昨夜の出来事がなかったみたいにいつも通りで、拍子抜けした。もうこれで纏わりつかれることはないだろうと思っていたのにいつものような笑顔を浮かべているが、右頬にガーゼが貼られており少し腫れているようだ。その健気な姿に胸が痛い。  クラスメイトたちは和音の顔の異変にコソコソと話し始めた。「女の子を泣かせたのかな」と見当違いな意見が多かったが、この真実を知っているのは麻耶と和音だけだろう。  訝し気な視線が刺さることもなく教室を抜け出し、定番の場所となっている屋上へと目指す。 和音は学年を問わず友人が多い。擦れ違う人全員が知り合いなんじゃないかという具合で声をかけられる。圧倒的に女子が多いが、男子からも声をかけられたり親しげにどつかれている。  こんなに友人が多いのに、どうして女装癖のある自分のところに来るのか益々わからない。  麻耶は和音の友人たちに見つからないように息を潜め、顔を俯かせた。  「いっただきます!」  屋上へ続く踊り場に着くと和音は持っていた袋を開けて菓子パンを取り出した。中をこっそり覗いてみると、コロッケパンや焼きそばパン、ホットドックなど脂っこいものが多い。みただけで胸焼けしてしまいそうだ。エンゲル係数が右肩上がりの食事で栄養価は足りているのだろうか。  麻耶は逡巡したが、とりあえず和音の隣に腰を下ろす。壁に背を預けるとひんやりと冷たい。日の当たらない踊り場の空気は凛と張りつめている。  「これね、うちの新商品なんだ。けっこう美味しいらしいんだよね!」  コロッケパンを口に頬張り、もぐもぐと咀嚼する。リスみたいに頬を膨らませているのが似合っていてなんだかおかしい。  和音は昨夜のことをなにも言ってこない。  わざと触れないでいてくれるのだろうけれど、こちらとしては処刑台に立たされたまま何もされないのと同じだ。そのやさしさが気味悪く、殺すならはやく殺してくれと願ってしまいたくなる。  鼓膜の奥で「キモイ」「こっちくんな」と声が響く。恐怖が全身を支配し、指先に力が入らなくなり渇いた音をたてて箸が床に転がった。  「大丈夫?」  「うん」  「大丈夫って顔してないよ。顔色めっちゃ悪いし……ここ寒かった?」  「本当に平気だから」  心配してくれている和音が痛い。どうしてオマエは平気なんだ。俺のこと気持ち悪くないのかよ。  上っ面ではないやさしさが余計に麻耶を苦しめる。そんな風にされたことはいままでなかった。誰も彼も、麻耶の趣味を忌み嫌い気持ち悪いと蔑まれた。親友だと思っていた人でさえ。  和音はまだ心配そうに麻耶の顔を覗き込むが、それ以上なにも触れてこなかった。一定の距離を保ち、不必要に踏み込んでこない。  ちゃんと空気を読めて分もわきまえている。  コイツは中学のやつらとは違うのかもしれない。けれどいまの自分に誰かを信じられるだろうか。  「その弁当、先輩が作ったの?」  「ああ、うん」  「すごいね!おいしそう」  屈託がない笑顔を向けられ、麻耶の肩は小さく跳ねた。  『鴻崎(こうざき)ってミシン使うの上手いな』  きっかけは何の変哲もない言葉だった。  『たまに家で母親の手伝いをしているから』  『そうなんだ。すごいね!』   クラスメイトが麻耶の周りに集まり、ミシンで縫っている座布団を褒めていた。すごいね、上手だねと言われると鼻高々な気持ちになった。先生も「鴻崎くんのように真っ直ぐミシンが使えるように」と言うと、叫びだしたいくらい嬉しかった。  教室に戻るとクラスで中心のグループがみんなに聞こえるように大声で話し始める。  『男のくせに裁縫が得意とかキモくね』  『確かに』  『男のくせに女みてぇ。髪も長いしさ』  気持ちが竦んだが親友に「気にするな」と背中を押され、その場は何事もなく収まった。  数日後、移動教室から戻ると麻耶の鞄の中身が散らばっていた。筆記用具や教科書以外に隠れて持ってきていたラウンデルのぬいぐるみが床に転がっていた。  『あれー?鴻崎、ぬいぐるみ持ってきてるの?』  『てか、これはないっしょ』  『普通に引くんだけど』  室温が下がり、それに合わせて麻耶の体温も冷たくなっている。自分がいま息を吸っているのか吐いているのかさえあやふやで、ただ床に落ちているぬいぐるみを凝視した。  裁縫を褒めてくれたクラスメイトたちですら、異物をみるように麻耶に視線を投げかける。冷ややかで、冷徹で、冷酷。いくつもの瞳がただ同じ感情で麻耶をみつめる。  キモチワルイ  『麻耶ってそんな趣味だったの?』  『これはちょっとないわ』  親友の声が耳から離れなかった。味方になってくれると淡い期待を、木っ端みじんに切り刻まれた。  ぬいぐるみを汚い上履きで踏みつぶされる。  上から圧力がかかり、にっこりと微笑んだ猫の顔が歪み地面へとめり込む。それが泣いているようにみえた。  『オマエ、キモイよ?』  酷薄な笑みに口許を不気味に歪ませた男の顔が脳に焼きついた。麻耶は逃げるように教室を飛び出した。  「キモイ」「引く」「やばい」とクラスメイトたちの中傷が心に刻まれていく。深く。深く。  自分だってかわいいものが好きで、裁縫が得意なことを気持ち悪いと思っていた。それ をみんなの前で言われ、身が千切れる思いだ。せめて親友だけはわかってくれると思ったんだけどな。    結局、人は人を裏切るのだ。  それから学校へは行かず、高校は中学の人がいない遠い場所を選んだ。なのに。和音に知られてしまった。また昔みたいに傷つけられてしまうのだろうか。  怖い。和音の笑顔が堪らなく怖い。せっかくここまで立ち直ってきたのに。  麻耶は震える指先をぼうっと眺めた。

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