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第四話
甘く香ばしい匂いが台所を満たす。オーブンを覗くと、クッキーが円形に膨らんでいる。
今回もうまくできあがりそうだ。
クッキーが焼きあがるまでの時間を確認し、椅子に腰をおろした。テーブルの上にはラウンデルの皿とカップが並び、麻耶は愛おしそうに食器の縁を指でなぞった。ラウンデルのトレードマークである黒猫のラウンデルと白猫のローザが仲睦まじく寄り添い、尻尾でハートの形をつくる。周りにはラベンダーの小花が咲き乱れ、まるで二人を祝福しているようだ。
お菓子を作って、それをラウンデルの食器で盛り付けると津波のように荒れていた心が穏やかにたゆたう。麻耶にとっての精神安定剤だ。
和音はどうして俺のことを避けないのだろう。
女装をみられてから春が過ぎ、梅雨になろうとしていた。教室まで迎えに来て、お昼を食べて、たまに一緒に帰って。その間、和音はいつも通りだった。女装のことをなにも訊いてこない。
そして最初会ったときに言っていたことも気になる。和音の顔は見覚えがある気がするが、あまり過去を振り返りたくない。嫌な記憶は嫌なものも引き連れてくる。開きかけた記憶の蓋をきつく閉じた。
「あら?いい匂いがすると思ったらクッキー焼いてるの?」
母親の佳恵が台所から顔を覗かせると、嬉しそうに微笑んでいた。年相応に皺が刻まれ、その下には柔和な表情を浮かべている。
やさしく温厚である佳恵は一度も麻耶を叱りつけたことはない。ただ困ったように眉を寄せて、麻耶の女装を見守っていた。きっと麻耶のことに呆れて何も言えないでいるのだろう。だから佳恵のことは嫌いではないが、少し苦手だ。
「麻耶、クッキー作るの上手だもんね。食べたいな」
「いいよ。たくさん作ったし」
「ふふ。ありがとう。じゃあお茶準備するわね」
佳恵は鼻歌交じりで食器棚を漁り、ティーカップをテーブルに並べる。特別なときにしか使わないラウンデルのカップ。取っ手が猫の尻尾でハートになっており、白を基調とした中にラベンダーの花びらが踊っている。麻耶のとっておきのお気に入りのものだ。
これを出すということは佳恵なりに気を使っているのだろう。年頃の息子との距離を測りかねているのかもしれない。
すでにテーブルに並んでいる皿をみて、佳恵は目を丸くした。
「こっちもラウンデルなのね。懐かしいわ……確かもう生産されてないのよね」
「うん」
「麻耶が小さいとき、毎週のようにお店に通ったのよ。覚えてる?」
「え?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われる。
記憶の断片が蓋の隙間からこぼれ落ちてくる。
「まやちゃん」と舌足らずの子どもの声が聞こえた。
「あの子、今頃どうしてるかしらね。麻耶と年が近かったから高校生くらいかしら」
「あの子?」
「ほら、ラウンデルのお店の子。忘れちゃったの?仲良く遊んでたじゃない」
断続的な記憶の欠片が、一つ一つ蘇ってくる。いつもにこにこ笑って、店の中を元気に駆け回っていた少年の姿がはっきり浮かんだ。
「確か名前は」
「わおん」
そうか。思い出した。あいつはラウンデルの店の子だ。
絵の具をひっくり返したような青空が地平線の向こうまで広がっていく。雲一つない快晴で、太陽が夏の到来をいまかいまかと待ちわびている。日差しはコンクリートを焦がし、風にのって薬品の匂いが鼻につくのは難点だが、この場所はとても気持ちがいい。
屋上の貯水槽の日陰になっているところに陣取り、麻耶と和音は隣に座り校庭を見下ろしている。
相変わらずコンビニ袋から菓子パンを取り出す。コロッケパン、焼きそばパン、ホットドック。こんな食事でよく体がもっているよな。
和音はコロッケパンの封を開けると、一気に口の中に押し込む。両頬を膨らませたまま咀嚼している。美味しそうに目を細めて、味を堪能しているようだ。
右頬のガーゼは取れて、腫れも引いていた。痕も残っている様子はないので、ほっと胸を撫で下ろす。
一つのことを思い出せば、波紋が広がっていくようにさまざまな記憶が呼び覚まされる。
ラウンデルの専門ショップが麻耶の家から二駅隣の場所にあり、若い夫婦が営んでいた。
夫がデザイナーで、妻が店を切り盛りしている。その二人の間に和音がいた。
店に行けば和音は麻耶の傍を離れたがらなかった。まるで兄弟のようだと言われたが、顔も体格も似ていない二人は親戚でも通じないだろう。
麻耶が店を物色しているのを横でなにかと話かけてきていた。適当に相槌を打っていても、和音は楽しそうに笑っていた。
『まやちゃんはなんでラウンデルがすきなの?』
『かわいいから』
『じゃ、じゃあぼくのこともすき?』
『べつにきらいじゃない』
『それってすきってこと?うれしいな』
和音は本当に嬉しそうに頬を下げて、屈託のない笑みを浮かべた。子どもらしくふわふわとした頬を赤く染め、幼いながらも男らしい瞳で真っ直ぐ射抜いた。
『これからもずっとずーっとラウンデルが好きだったら』
あのとき、和音は何て言ったんだっけ。
そこの記憶だけがどうしても思い出せない。
忘れてしまいたくなるほど、酷いことを言われたのだろうか。それすらも薄れてしまっている。
「先輩、食べないの?」
不思議そうに顔を覗き込まれ、麻耶は一気に現実に引き戻された。小首を傾げ、少し上目づかいをする和音が子どもの頃と重なった。
けれどシャツから覗く二の腕の逞しさをみると、時間の経過を感じずにはいられない。
「食べるよ」
「それならいいんだけど……最近よく考え事してるね」
「そうかな」
あくまで平静を装ったつもりだが、少し声が上擦ってしまった。四六時中和音のことばかりを考えているとは知られたくない。
和音はまっすぐに麻耶を見たまま視線を逸らさない。生温い風が和音の前髪を揺らし、鬱陶しそうに掻き上げた。
「そうだよ。オレは先輩のこと、ずっとみてるから」
色香すら感じる声音に首の後ろがぞわりとあわ立つ。
「顔、真っ赤だよ」
「うるさい」
長い前髪で目元を隠そうと下を向いたが、和音の大きな手のひらに阻まれる。頬を両手で包み込まれ、持ち上げられた。
熱い吐息が肌にかかり、和音の匂いがぐっと近づく。どこかのブランドの柑橘系の香水と和音のやさしい匂い。鼻孔を抜けて脳髄を痺れさせる。
思考がままならなくなり、心臓が忙しなく鼓動していた。
「あんまりかわいい顔されると襲っちゃうよ」
「襲うって、俺は男だ」
「性別なんて関係ないよ」
瑣末なことだと吐き捨てる和音の表情が冷たい。獲物を捕らえた獣のように瞳の奥はぎらりと瞬く。
「ばっかじゃねぇの」
「ちぇっ、わりと本気なんだけどな」
和音は何事もなかったように手を離して身を引いた。
体中が熱い。このまま溶けてしまいそうだ。
早鐘を打ち続ける胸が痛い。このまま皮膚を破り、心臓が飛び出るんじゃないか。
「でも、オレは先輩がどんな人でもきっと好きだよ」
明日の天気でも言うくらいの軽いノリの告白に毒気を抜かれてしまった。
さっきから大人びたり子どもに戻ったりと忙しいやつだな。
ふっと息を吐くと体の力が抜け、肩が軽くなっていく。肩肘張って一体なにを護ろうとしていたのだろう。
「女装癖があっても?」
「好きだよ」
「かわいいもの好きでも?」
「大好き」
けろりとした物言いに、反駁する気力も失せ麻耶は気付かれないように笑った。
俺にこいつを信じられるだろうか。
クラスメイトたちの中傷と冷ややかな視線。
麻耶の心に棲みつき、蝕んでいく闇。
指先が震え始め、自分の体を掻き抱いた。
そうしないとバラバラになってしまいそうな気がした。
和音はなにも言わず、麻耶の体を抱き寄せた。厚く筋肉質な胸板に頭を預ける。すべてを包み込む心地よい体温とやさしい心音。
麻耶は目蓋を閉じ、その音だけに耳を傾けた。
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