5 / 9

第五話

 『まやちゃん!』  店の扉に括りつけられたベルが鳴ると奥から子犬のような少年が飛び出してくる。麻耶と年が近い少年の背丈は頭一つ分低く、体のラインも細かった。中性的な顔立ちをしているので、性別の判断に困る。それをわかっているのか、服装は男の子らしく恐竜の描かれたシャツと黒のハーフパンツをよく着ていた。  ラウンデルの店内の壁は白く、棚やガラスケースの中にぬいぐるみや食器などが行儀よく並んでいる。ガラスでできたシャンデリアが天井にぶら下がり、床は赤い絨毯が敷かれている。外国のお城のように異次元めいていた。  右をみても左をみてもラウンデルの品々が置いてある。かわいいもにしか許されない閉ざされた世界。  目を輝かせていると、店の奥さんがくすくすと笑った。  『まやちゃんは本当にラウンデルが好きなのね。おばさん、嬉しいわ』  店番をしている女主人ーー和音の母親ののどかは微笑を浮かべた。長い黒髪を横でやんわりと結い、肌も透き通るほど白く儚げな白ユリのようだ。  のどかはいつも笑っていた。笑顔のお面を被っているように、和音が店のものを壊しても邪魔をしても笑顔を絶やさなかった。ラウンデルの店内の雰囲気がのどかを中心にやさしく塗り替えられているようだった。  ラウンデルのデザイナーである和音の父親は奥に引っ込んで店に出てくることはない。  一度だけ姿をみたときは、デザイナーというより工事現場にいそうな筋肉質な体躯で肌黒の逞しい男だった。口数も少なく、眉間に皺を寄せているので幼い麻耶には怖い印象を植え付けていた。  『ラウンデルとローザってなにがモデルかしってる?』  『モデル?』  恋人のように寄り添い尻尾で二人の愛を示すハートをつくっている二匹にモデルがいたとは初耳だ。  麻耶がオウム返しに答えると、和音は顔を寄せてきた。  『あのね、このにひきはぼくのおとうさんとおかあさんなんだよ』  『へぇ』  のどかを見上げると、彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。  『もう和音ったら秘密って言ったでしょ』  『だってまやちゃんならいいでしょ』  年齢より若く見えるのどかは耳まで赤くして、店の奥に引っ込んでしまった。子どももいるのに、まるでクラスメイトに揶揄された学生のように初々しい。  一匹でハートをつくる黒猫のラウンデルを指でなぞると、込み上げてくるものがあった。  中学を上がったころから二匹の猫は忽然と一匹になり、寂しそうにハートを描く。ラウンデルの店も閉店し、グッズは生産されなくなった。  個人で経営していたため、経営は危うかったのかもしれない。全国的に有名というわけではないラウンデルは家族三人を養うのには十分な利益が出なかったのだろう。  それでも、なぜーー  「どうして一匹になっちまったんだよ」  仲良さそうに並んでいたのに。一人は寂しいはずなのに。  あの夫婦に、家族になにかあったのだろうか。そういえば和音から家族の話を聞いたことがない。  「ほら、考え事してる」  上から降りかかってきた声にびくりと肩が跳ねた。  「驚かすなよ」  「さっきから声かけてましたよー。先輩がぼんやりしてたからでしょ」  和音は麻耶の隣に腰をおろし、お馴染みとなったコンビニ袋を開けた。  埃っぽい踊り場も何度も足を踏み入れているせいか愛着が湧いていた。どこにどういう傷があるのかも、きっと空で言えてしまう。  最初は地面に座るのに抵抗があったが、いまは慣れて、固い壁に背を預けるのも苦痛ではなくなってきた。  「あ、それ」  麻耶が握りしめていたラウンデルの匂い袋を目敏くみつけ、和音は破顔した。  「ラウンデルの匂い袋だ。もう匂いはしないんだけどな」  「じゃあオレのこと思い出してくれた?」  「思い出したよ」 遠い過去に思いを馳せるように、壁の向こうに目を凝らした。  「過去は辛いことばかりで思い出したくなかったんだけどな。不思議と懐かしく思えるんだ」  かわいいものが好きというだけで迫害された日も。初めてラウンデルに出会った日も。  すべてが悲しいものではなく、やさしく輝いているものも確かにあった。  「うちに来る?」  「え?」  「ラウンデルのグッズ、たくさんあるよ」  「ラウンデル……」  ラウデルを目の前に釣らされると弱い。我ながら現金なやつだ。  麻耶の表情をみて、和音は確信に満ちた表 情になった。  「よし、決まり!放課後迎えに行くね」  頭を撫でられ、違う意味で胸がざわついた。  「ボロくてごめんね」  高校から歩いて十分ほどの住宅街のところに二階建ての木造アパートが建っていた。築五十年以上はありそうな貫録を感じさせる。  この近辺は新築の戸建が多く、このアパートだけが時代に取り残されたようだ。  「汚いからあまりみないでね」  前置きはされたものの、他人の家に入るのが初めてに近い麻耶は部屋の隅から隅へと視線を走らせた。  壁は黒く淀み、柱は剥き出しの木のまま部屋の中にどっしりと構えている。歩くたびに床がぎしぎしと鳴り、少し傾いていた。けれど家具はきれいに並べられていて、まめに掃除をしているのか汚れ一つ見当たらない。机や椅子、箪笥も長年大事に愛用されているようで丁寧に使われているのがわかる。  短い廊下を歩くと正面に十畳ほどの居間がある。   畳は日に焼け色は変わっているものの、ささくれだっている箇所もない。すんと匂いを嗅ぐと、わずかに自室で嗅ぎなれた匂いがした気がする。  「意外だな……」  「何が?」  奥の部屋でゴソゴソと何かをやっている和音の声が壁に反響する。思ったよりも大きな声だったので、近くにいるのではないかとあたりを見回した。  「もっと、こう……普通の家かと」  ばか、もっと言い方があるだろ。  しばらくまともに人と会話していなかった のでオブラートの包み方を忘れてしまっていた。ストレートな言葉にも気にした風はなく、それはねといつもと変わりない声が返ってきた。  「事業が失敗したからなんです」  お盆に二つのグラスを載せて現れた和音はにこりと笑った。気を悪くさせてしまっただろうか。どう反応を返せばいいのかわからず和音はグラスに視線を向けた。  透明なグラスの所々に紫色の小花が散っていて、トレードマークの黒猫の長い尻尾がハートを描いていた。  「……ラウンデル」  「目敏いね」  さすがだよ、と和音はにこりと笑った。自分の目の付け所が露呈してしまったようで恥ずかしい。ラウンデルのために来ているのだからいつもより敏感になってしまうのは仕方がない、と自分を宥めた。  「昔からそうだったよね。ちょっと待ってて」  お盆をちゃぶ台に置き、和音はまた奥へと引っ込んでしまった。  数分と待たされずに、和音は小さなダンボールを抱えて現れてきた。まるで宝物を発見したような得意げな笑みを浮かべている。  「だいぶ処分しちゃって、あまり残ってないんだけど」  和音がダンボールを開けると、待ちきれずに麻耶は顔を覗かせた。  猫のぬいぐるみやグラス、花瓶、鏡などラベンダーの花と黒猫がトレードマークのラウンデルの小物があれよあれよと出てくる。一つずつちゃぶ台に並べていくと、麻耶は目を瞠った。  「すごい……」  どれも生産中止になったものばかりで、麻耶は一つも持っていなかった。  黒猫と一緒に白猫が描かれている初期のものは、あまり出回っていない。麻耶ですらティーカップと小皿しか持っていない。  二匹が寄り添うように尻尾を絡ませ、その姿は一目で恋人同士だとわかる。どうして途中から黒猫一匹になってしまったのかは謎のままだ。  「すごい!夢みたいだ」  指紋をつけないようにズボンで手を拭いてから、グラスを手にとった。光にかざしてグラスを照らす。ぐるりと回転させながら、細部まで見入った。  ラベンダーの花びらが小さなハートの形になっており、手作業で描かれているため形がそれぞれ違う。歪な形ですら麻耶の心を弾ませる。  「ふふっ。そんなに気に入ってもらえてうれしいよ」  和音の笑い声に我に返り、周りのことがみえなくなっていたことに気付いた。耳が熱くなっていくのが自分でもわかる。もしかしたら顔も赤くなっているかもしれない。  「……気持ち悪いだろ」  「え?全然そんなこと思ってないよ。ただ単純にうれしいだけ」  「そうか」  「先輩が子どものときのまんまで、安心したよ」  そう笑って和音は机に頬杖をついた。観察するみたいに麻耶の顔をみている。少し居心地が悪い。けれど嫌な気分はしない。  刺すような視線とは違う。どこか慈愛に満ちたやさしい目線は麻耶の気持ちを抱き、ゆっくりと背中を撫でてくれるような温もりがあった。  和音と目が合うと小首を傾げて「なに?」と問われる。麻耶はなにも答えることができず、強く拍動し始めた心臓を誤魔化すように咳払いをした。  窓から夕陽が差し込み、部屋を橙色で色づける。薄暗くようやく視界がわるいことに気付き、麻耶は顔をあげた。  「あ、そろそろバイト行かなきゃ」  和音は立ち上がり、飲み干したグラスを台所へと運んだ。丁寧にグラスが流し台に置かれる音につい耳を傾けてしまった。割らないだろうかとついハラハラしてしまう自分がなんだかおかしい。  「あんま時間なくてごめんね。あと、これ好きなの持って帰っていいよ? てか、全部いる?」  「いいのか?」  願ってもない提案に麻耶の心は躍った。宝物たちがうちにやってくるというだけで、興奮を覚えた。  「うん。もう必要ないし」  言葉の気温が一気に下がった鋭さに、麻耶の肩はビクリと跳ねた。いつもの和音とは違う冷たい言い方に、麻耶は息を呑んだ。  「ごめん、ちょっと嫌なことを思い出して」  「いや……」  台所の暖簾から覗かせた和音の顔はいつもの笑顔で、さっきの声とは別人なんじゃないんだろうかと思ってしまう。  重たい空気が部屋を満たしていく。カチカチと時計の針が進む音だけが虚しく響いた。  嫌な空気に耐えきれず、麻耶が口笛をきった。  「こんな遅くまでいて悪いな。親御さんに迷惑をかけた」  「大丈夫だよ。母親は仕事でいつも夜遅いし」  「……父親は?」  和音の顔が曇り、眉間に皺が刻まれた。また訊いてしまった。どうして人の機微を読むことが疎いんだと、自分の愚かさを恥じた。  「親父は死んだよ」  「ごめん」  「もう昔のことだし」  諦めたような渇いた笑い声がやけに耳に残った。さっきから元気がないことも気になる。  けれど、どういう言葉をかけてやるべきなのかいまの麻耶にはわからない。また余計なことを言って傷つけてしまうかもしれない。  和音が鞄を手に取るのに倣って麻耶も鞄を肩にかけた。二人で玄関に向かうと、やっぱり床は悲鳴をあげた。いまの和音の心の叫びなのではないか。  「先輩は?」  「ん?」  「家族は、先輩のこと理解してくれてるの?」  「それは……」  家族はなにも言わない。女装しているときでも、部屋の少女趣味をみているときもただ目を背けて要件だけを残して足早に去ってしまう。きっと嫌われている。男のくせにかわいいものが好きで、女装癖があって恥ずかしいと思っているに違いない。  だけど、自分から言うのも怖くて訊けないでいる。ただ家族との間にみえない溝が深くなっているだけのように感じていた。  「案外話し合ってみるといいかもしれないよ」  「なんで」  「先輩って不器用なところあるし。やっぱそういうのって親の遺伝なんじゃないかな」  見透かすような物言いに、麻耶は奥歯を噛み締めた。どれだけ自分の存在を恥じてきたか、和音にはわからないくせに。知ったよう口をしないで欲しい。  「何でも知ってるような口ぶりだな」  「そんなことないよ。ただ、子どものときみた麻耶先輩のおばさんは、とてもやさしそうにみえたから」  玄関に座って靴を履いていた和音が振り返る。色素の薄い瞳が麻耶を見透かそうと目を細めている。  そんな目でみるなよ。俺はもう傷つきたくないんだ。  和音の視線から逃れるように、顔を背けて靴を履いた。

ともだちにシェアしよう!