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第七話

 季節は変わり、春から夏へと街を彩る。太陽の日差しを浴びた新緑が天へと高く伸びていき、比例するように日に日に気温が上がっていく。  夏服へと衣替えした学内はどこか浮き足立っていた。夏休みが目前ということもあるせいか、クラスの中が妙な興奮で満たされている。  休み時間のたびに仲の良いグループで集まり、夏休みはどこに行くか、なにをするかの計画に余念がない。来年の夏は受験一色になってしまうので、高校生活で遊べる夏は今年で最後だ。思い出をつくろうとクラスメイトたちは躍起になっているようにみえた。  窓際の一番後ろの席に座り、ぼんやりと校庭を見下ろしている麻耶には楽しそうな声も右から左へと擦り抜けてしまう。  日差しがジリジリと麻耶の白い腕を焦がしていく。カーテンを閉めようかと思ったが、校庭から目を離したくはなかった。いつでも和音を探せるように。  あの日を境に、和音は姿を消した。まるで最初から和音なんていなかったみたいに、静かに確実に一日が過ぎていく。  毎日のように麻耶のクラスに来ては、屋上の踊り場に行っていたのが夢だったみたいだ。  部原和音なんて人間はいなかったのではないかと過る度に、携帯のアドレス帳を開いて和音の名前を探す。  は行の一番上にある名前をみて、麻耶はほっと安堵の息を吐いた。  一体、和音はどうしてしまったのだろう。  和音の家に行ったとき少し様子が違った。  よそよそしいというか後ろめたそうというか。  感情のままに行動する和音と同一人物とは思えないほどの不安定だった。なにかを隠しているようにもみえたが、人の機微に敏くない麻耶にはこれ以上のことはわからない。  肌が焼け焦げそうな痛みを覚え、麻耶は腕を机の下に隠した。ひんやりとする日陰は腕を冷やすのに最適だ。きっと屋上の踊り場も日が届かないから涼しいのかもしれない。とても一人では行く気になれないけど。  がらがらと扉が開く音がして反射的に視線を向けた。そこには二人組の女子が楽しそうに話しながら戻ってきている姿だった。  和音の姿は、ない。  いつも和音が麻耶の教室に来ていた。上級生がいる階に行くだけでも異物をみるような視線を向けられるというのに、和音は気にすることなく教室にまで足を踏み入れていた。  変われるチャンスをくれたのは和音だ。少しだけ、ほんの少しでいいから勇気をください。  麻耶はポケットに入っている匂い袋を握りしめ、立ち上がった。 「そう……ですか。ありがとうございます」  一つずつクラスを回り、近くにいる人に声をかけては和音の居所を探した。前髪が長く目元が隠れている麻耶を訝しげな視線がいくつも刺さる。  それでもできるだけ顔をあげて相手の顔をみるようにしながら声を出すと、驚くほどはっきりと話せた。まるで喉から肺までの器官が大口を開けたみたいに、空気の通りがよくなる。  一組から順にクラスを回り、和音が七組だということがわかった。それにここ数週間あまり学校に来ていないらしい。教師たちも心配しているらしいが、どうにも連絡がつかないという話だった。  試しに電話をかけてみたが、コール音が虚しく響くだけだった。  連絡がつかないところをみるとなにかあったのは明白だ。予期せぬトラブルでもあったのだろうか。最悪の出来事が次から次へと思い浮かび、払拭するため頭を振った。  「あとは……」  もう最後の綱に頼るしなかない。  夜の帳が下り満月が夜空に浮かび上がる頃、麻耶は和音が働いていたコンビニに向かった。  もちろん服装は普段着用のシャツとチノパンだ。  住宅街のど真ん中にあるコンビニの電飾は目が痛くなるほど煌々と輝いている。瞬きをすると目蓋の裏にミミズのような線が何本もみえた。  意を決して、自動ドアを潜る。  ピンポーンと来客を知らせる電子音が響くと、やけに間延びした「いらっしゃいませー」が店の奥から聞こえてくる。ひんやりとした冷気を肺に馴染ませ、麻耶は奥へと進んだ。  一番奥の飲み物やサラダなどが並んでいるところに大きな背中が丸まっていた。サラダの賞味期限のチェックでもしているのか、棚に並んでいるものを手にとっては何かを確認しているようだ。  「和音」  「……っ!? マヤ先輩?」  振り返った和音の姿に麻耶は息を呑んだ。  肌がこけ、目の下に重たい隈がぷっくりと浮かんでいる。元々色白の肌が不健康に青白く、唇も色素を失っていた。声にも覇気がなく、一目にやつれていることがわかる。  それでも無理して笑おうとしてくれているのか、左頬が不自然に吊り上がっている。あまりにも痛々しい姿に、麻耶はたまらず顔を逸らした。  「ビックリした。まさか先輩から会いに来てくれるなんて思ってもみなかったよ」  あくまでいつも通りの調子の和音に段々と苛立ちが募ってくる。  どうして無理して笑うんだよ。    「学校、来てないって聞いたから」  「そっか。もう面倒になっちゃってさ」  賞味期限を確認しては棚に戻し、地面に置いてある箱から新しいサラダを奥へと並べる。  手を休めようとしない姿は操られているように単調な動きだ。  和音の大きな手のひらにそっと自分のものを重ねる。男のくせに小さく長く細い指でも、和音の手を覆うことはできない。  「先輩?」  「一体どうしたんだ」  「それは」  和音は悲しそうに目を伏せ、それっきり言葉を塞いでしまった。麻耶もつられて唇を結んだ。  店内から有線で流れている場違いな音楽が流れる。オリコンチャートで一位を取ったというアイドルグループのヒップホップ。安っぽい歌詞と万人受けしそうな音楽が耳障りに感じる。クラスメイトの声ですら耳に入らなくなったというのに。  「なんで何にも言わない?」  「……」  イライラする。  麻耶の懐には土足で入ってきて掻き乱して。  こうしてバイト先まで押しかけてしまうほど、和音のことが心配で仕方がないというのに。  麻耶は項垂れている和音の襟を掴んで、自分の方へと引き寄せた。目を白黒とさせたまま和音は抵抗する気力もないのか、両腕を力なく垂らしている。  「オマエは!土足で俺の中に踏み込んで騒ぎ散らして、ついうっかり乗せられちゃってさ。親との溝もオマエのお陰でなくなったっていうのに……どうしてオマエは、俺になにも話してくれないんだよ」  目に熱いものが込み上げてくる。あ、泣きそうと思う前に涙は頬に伝う感覚があった。  どうして和音のことはなにも教えてくれない。  どうして俺はコイツのことをほとんど知らないんだ。  自分に向けたいのか和音に向けたいのかわからない怒りが火種となって麻耶の体を熱くさせる。  和音のことが知りたい。こんなに弱っても誰も頼ろうとしない和音をみているだけなんて、できない。  いままで知らなかった感情が胸の底で開花する。   もしかして、和音のことが好きなのか?と見当違いな考えに至り、腑に落ちる感覚にさらに戸惑う。  体は熱く汗ばんでいるというのに、頭の中だけは冷水を浴びたように落ち着いている。  好き、なんだ。コイツのこと。どうしていままで気付かなかったんだろう。  かわいいものに囲まれていれば幸せだった。  何物にも侵されず平穏だった毎日が歪な形となって麻耶の目の前に突きつける。  「先輩?」  握りしめていた襟に和音の大きな手のひらが重なる。温かくでゴツゴツしている男らしい手のひら。体温の高さに麻耶の熱はさらに上がり始めた。  「顔赤いよ?大丈夫?」  ぐいと顔を近づけられ、さらに狼狽した。  「なんでもない」と返すだけで精一杯だった。  「それより話せ。なにがあったか。事細かに」  「……わかった。じゃあ事務所行こう。この時間お客さん来ないし、従業員はオレだけだから」  手を繋がれたまま奥の事務所へと案内され、二つあったパイプ椅子の一つを勧められ腰を落ち着けた。  六畳にもみたない狭い空間にはパソコンが二台と監視カメラの映像を映しているテレビが四台ほど壁際に並んでいた。  「麻耶先輩、オレのこと心配して来てくれたの?」  「そうだ」  和音はもう片方の椅子に座り、探るように麻耶の瞳をみつめた。褐色の瞳が不安そうに自分を見返す。瞳の奥に悲しさや寂しさを垣間見た気がした。  「重たくなる話だけど、大丈夫?」  その重々しい言葉に麻耶は逡巡した。知りたいと思ったのは麻耶自身の願いだ。それを蔑ろにはできない。どんなに辛い出来事が待ち受けていても、例え世界の見方が変わってしまったとしても和音の力になりたい。  麻耶はゆっくりと首肯すると、和音は深い息を吐いた。  「先輩も知ってると思うけど、ラウンデルの二匹の猫はオレの両親だった。本当に仲が良くて、おしどり夫婦って近所でも評判だったんだ。でも、ラウンデルがあんまり売れなくて家計が苦しくなって店を閉店することになった。そしたら親父は酒浸りになって、オレとお袋に暴力を振るうようになって……耐えきれなくなったお袋がまだ小学生だったオレを連れ出して、逃げるように家を出たんだ」  和音はぽつりぽつりと自分の身の上の話をした。想像を超える現実の重さに、麻耶は口を開くこともできずに、黙って聞いていた。  「元々頑丈じゃないお袋は先月倒れたんだ。とても働ける容体じゃないのに、働くと一点張りで。だから無理矢理入院させて、治療費と生活費を稼ぐためにバイトばっかりしてたわけ。朝も昼も夜も寝る時間を惜しんで働いてたから、学校なんて行く余裕もなくて」  しょんぼりとした形容が似合うくらい和音は肩を落とした。水銀灯の光が和音の顔に疲れを滲ませた陰影をつくる。  ご飯を食べろ、ちゃんと寝ろと言いたいのに、いまの話を聞いてしまってはなにも言えない。どんな慰めの言葉も全部安っぽく感じる。  麻耶は立ち上がり、そっと和音の体を抱いた。大きくて肩幅のある和音の体は麻耶の胸の中には収まりきらない。  癖のついた髪をあやすように撫でると、和音の頭が麻耶の胸にとんと寄りかかってきた。  子どもを護りたいような庇護欲にかられる。  和音がこのまま消えてしまうそうな気がした。  「辛かったな。よく頑張ったよ」  ぎゅっと抱きしめると、和音の腕が背中に伸びる。二人できつく抱き合った。寂しさも辛さも悲しさも二人の熱で溶かすように。  しゃくりあげる和音の泣き声を聞きながら、麻耶は縋りつくような和音を離さなかった。

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