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第8話 はじまりの日②

 それは、ひどく美しい生き物だった。  夕日を透かすような純白の長髪と、お月さまのような金色の瞳。上半身の半分が真っ赤な血に覆われているにも関わらず、白い着物を纏った姿は作り物のように整っていた。よく見れば顔も髪も泥と血で汚れていることが分かっただろうが、そんなささいなことは気にならないくらい、きれいなひとだった。  崩れかけた石碑に背を預けて座るそのひとから、目を離せなくなる。ひと目見た瞬間から、きっと澄也は魅入られていた。  真っ白な神様が、澄也の人生に介入した瞬間だった。 『随分とまあ、珍しい人間がいたものだ』  甘くとろけるような声で笑ったそのひとは、軽く首を傾げて澄也を手招いた。澄也の上に伸し掛かった黒い化け物までもが、目の前のひとに見惚れるように動きを止める。無惨に傷ついた姿だというのに、今にもあくびをしそうなほどのんびりと、そのひとは唇を動かした。 『坊や。この札を剥がしてくれないかい。剥がしてくれたら助けてあげるよ』 『札……?』  その言葉に男の体を見れば、着物の帯に紛れるように男の体中に巻き付く何十枚もの札が見えた。赤い糸で繋げられた札は男の胴体に深く食い込み、動きをきつく戒めている。気味の悪いことに、足に巻き付いた札の文字は男の肌に溶け込むように蠢いていた。  震える手を必死に伸ばし、澄也は言われた通りにその中の一枚を手早く剥がした。その瞬間、にい、と唇だけを歪めたそのひとは、優雅に指を一振りした。 『臭い。汚い。消えろ、目障りなゴミが』    柔らかな表情には似合わぬ言葉が響いたかと思えば、黒い化け物が霧となって消えていく。何が起きたのか分からなくて、澄也は地面にへたり込んだまま、ぼんやりと白い髪のひとを見つめることしかできなかった。 『ああ忌々しい。暇で死ぬかと思った。あの水無川とかいう坊主、楽に死ねると思うなよ』    そのひとは体に巻き付いた残りの札を乱暴にはぎ取ると、立ち上がろうとしたようだった。けれど、両足で地面に立つ前に、ふらりと膝をついてしまう。  うずくまるように腹を折ったかと思えば、袖で口元を隠して、男は控えめに咳込んだ。外された袖と口元が赤く汚れていたから、血を吐いたのだろうと澄也にもすぐに分かった。 『大丈夫?』 『うん? 平気だよ、これくらい――んん?』    声を掛けた瞬間、そのひとは澄也に視線を向けて、目を輝かせた。その間にも口の端から血が流れてたから痛くないのだろうかと澄也は心配になったけれど、そのひとは痛みなどかけらも感じていないかのように軽く唇を拭うと、澄也のそばにそっとしゃがみこんできた。  じろじろと澄也を眺めまわしながら、美しいひとは先ほどまでとは打って変わった上機嫌で唇の端をつり上げる。 『上物だねえ。清らかな魂。これほどのものは初めて見た。なんだってこんなところに落ちているんだか。人柱か何かか?』  そのひとは何かを呟いていたけれど、じっと見惚れていた澄也の耳には聞こえていなかった。   『なんでもいいか。こんな場所に縛り付けられていたせいで、腹が減っているんだ。その血肉、頂こうか』  男の手が伸びてくる。汚れのこびりついた鋭い爪さえ、きれいだと思った。その手が澄也の首を掴む寸前で、澄也は思い出したかのように口を開く。 『アメ食べる?』 『はあ?』  ぴたりと男が動きを止める。中途半端に口を開けたその顔がなんだか面白く思えて、澄也はへらりと笑った。   『お腹が空いてるんでしょ? 俺、アメ持ってるよ。健がくれたんだ。あげる』    ごそごそとポケットを探り、澄也は小さなアメの包みをポケットから取り出した。唖然と目を見開く顔に、何か間違ったことをしただろうかと考え、澄也は先ほどの男の言葉を思い出す。  血肉と言っていた。血のことだろうか。もしかしたらアメは好きではないのかもしれない。受け取られなかったアメをしまって、代わりに澄也は黒い化け物にひっかかれた背中を青年に向けた。 『血の方が良いの? 蚊でもないのに、変なの』  ごく真剣に言ったというのに、白いひとはぽかん、と澄也を見返すだけだった。   『変なのはどちらだい? のんきな子どもだ。状況が分かっていないのか?』 『え? なにが?』 『……いいよ、何でもない。いくら子どもとはいえ、こんなにも危機感がないものか? 調子が狂うな』    疲れたような顔をしてそう言った美しいひとは、澄也の背から滴り落ちる血を当たり前のように手のひらで受け止めると、ごく自然にその血を口元に運んだ。しばしの間味わうように澄也の血を舌の上で転がした後、静かに嚥下する様子を、澄也はじっと見つめていた。  目を伏せて艶やかなため息をついたかと思うと、そのひとは『興が削がれた』とぽつりと呟く。 『俺の血、まずかった?』  しかめられた顔を見て、しょんぼりと澄也は尋ねる。血など鼻血を出したときくらいしか飲んだことがないけれど、おいしいと思ったことはない。欲しいというからあげたけれど、やはりおいしくなかったのかもしれない。けれど、ちらりと澄也を見たかと思うと、真っ白な青年は首を横に振った。   『おいしいよ。血肉には魂の香りが滲むから、その意味では極上だ。薄いけれど、それだけやせ細っていればこんなものだろう』 『よかった』 『……よかった? なぜ笑う? おかしな子どもだ。よく今まで生きてこられたな』    呆れたようにそう言って、真っ白なひとはまじまじと澄也を眺めてきた。 『ふうん。清らかというのはこういうことなのかな。……なるほどねえ。純粋なものほど悪意と不幸を呼び寄せる。ヒトもヒトではないものも、お前を食い尽くそうとするだろう。さぞかし生きづらかろうよ。かわいそうに』    澄也の何が気まぐれなそのひとの興味を引いたのかは分からない。けれど、そう言って目を細めた彼は、はちみつのような甘い声で、守ってあげようか、と続けた。  今も昔も自分勝手なそのひとは、いつだって問いの形を取るだけで、澄也の言葉を待ってはくれない。この時もそうだった。澄也が返事をする前にひとつ頷いたそのひとは、手慰みのように澄也の頭を撫でながら、飄々と言葉を続けたのだ。  誰かに撫でられるのなど、いつぶりかさえ思い出せない澄也の気持ちを知りもせずに、そのひとは笑う。 『決めた。そうしよう。退屈していたんだ。出ようと思えば出られないことはないけれど、今見つかるのは都合が悪いし……暇つぶしにはちょうどいい。白いものがいつまで白いままでいられるものか興味もある。どの道堕ちる間際に全部いただくのなら、血も肉も自分で手入れをした方が断然味も良くなるものね』  言っていることの意味は分からなかったけれど、このひとが澄也を化け物から助けてくれたということだけはその当時の澄也にも分かっていた。きらきらと輝く真っ白な髪に見惚れながら、幼い澄也は引き寄せられるように白い神様の袖を掴んだ。このひとが欲しいと強く思ったのだ。 『退屈なの?』 『ん? まあ、そうだね』 『退屈なら、俺と遊ぼう』 『はあ?』  きれいなひとはしかめ面まできれいだなと思いながら、澄也は行儀よく頭を下げた。   『助けてくれてありがとう、白い神様』 『神? 私のことを言っているのか? のん気な子どもだとは思っていたけれど、救いようのない馬鹿だな。頭のねじが抜けているんじゃないのか』  おかしくてたまらないとでも言うようにくつくつと喉を鳴らしたその男は、次の瞬間、にこりと笑って「いいよ」と言った。 『それもまた一興だ。無垢な魂が穢れるそのときまで、坊やの神様になってあげよう』 『遊ぶんじゃなくて?』 『遊びといえば遊びかもね。坊や、名前は何というんだい?』 『澄也』 『そう、澄也。愚かで哀れなヒトの子よ。いつか来るその日まで、仲良くしようじゃないか。まずはお互い、怪我をどうにかしようか。おいで』  美しい笑顔で手を差し伸べてくれたそのひとの名を、澄也は知らない。何度尋ねても教えてくれないからだ。澄也だけの真っ白な神様だから、澄也はそのひとを白神様と呼ぶことにした。  出会った瞬間の心臓を掴まれるような衝撃は、今でも鮮やかに記憶に焼き付いている。

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