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第15話 魔物狩り⑦

 誰かに頭を撫でられていた。ごく近くから、桃によく似た優しい匂いがする。怖いものなど何もないのだと、心の底から澄也を安心させてくれるひとの香りだ。ふわりと体があたたかくなったのは、何かを掛けてくれたからだろうか。 「家に送れと言っただろうが。言付けひとつ守れないのか。使えない烏だ」 「なんで儂が貴様の命令を聞かねばならんのだ。この鬼め」 「この子が風邪を引いたらどうする」 「夏だぞ。過保護も大概にしろ」  心地よいまどろみの中で、ぼそぼそと言い争う声がする。聞こえる声は二種類あった。ひとつは気難しそうなしわがれた声だ。 「じろじろと眺めまわすでないわ、気色の悪い」 「怪我がないか見ているんだよ。どこかの馬鹿烏がとろいものだから、怖い思いをしただろうね。かわいそうに」  鋭い言葉を受け流して答える声は、甘く柔らかい。聞き慣れた白神様の声と、頬をそっと撫でられる感触に、自然と澄也の口角は上がっていた。 「何がとろいだ! いきなり蹴り出されたこちらの身にもなってみろ! 貴様のような輩をストーカーと言うのだぞ、白鬼! まさかとは思うが、四六時中眺めているのではないだろうな」 「人聞きの悪い。おかしな気配がしたから見ていただけだ。坊はすぐに何かをひっつけてくるからねえ。……憑かれていた奴らは?」 「仕置きに悪夢を置いてきた」 「なんだ、全員食べてしまえば良かったのに。魂の味は粗悪だろうが、子どもの肉は柔らかいぞ」  心底残念そうに言うそのひとを、老人のようなしゃがれた声はぴしゃりと叱りつける。 「黙れ鬼が。汚らわしい貴様と同じにするな! ヒトの世にはルールがあるのだ。あの場の全員が消えれば、疑われるのはこの子なのだぞ。貴様のせいでただでさえヒトの世から浮いてしまっているというのに、これ以上苦しめる気なら承知せんぞ」 「随分と坊には甘いじゃないか、八咫烏(やたがらす)。お前がそんなに情深いとは知らなかった」 「情もうつるに決まっておろう。儂はな、貴様がこの子を囲い込むよりずっと前からこの子を見守っているのだぞ。こんな(くそ)みたいな鬼に執着されたせいで、必要のない苦しみまで受ける羽目になって……哀れな子だ。七つのときに死なせてやるべきだった」 「坊は楽しく生きている。何も知らずに死ぬくらいなら、苦しくとも生きる方をヒトは好むと知らないのか、糞爺(くそじじい)」 「貴様はこの子を育てて味を深めたいだけだろうが! 神の名を騙る不届きものが! 今に引き離してくれるわ」 「うるさい。ガアガア鳴くな。澄也が起きる」  ばさばさと聞こえた羽音に、重たいまぶたを持ち上げる。焦点の合わない視界の中に、月明かりに照らされた白神様と、翼を揺らす白い大烏が浮かんで見えた。  ああ夢か、と思った。あの白い烏は挨拶以外で喋ってくれた試しがないし、白神様が澄也の名前を呼んでくれたことなんて、出会った時以来一度もないのだから。 「……しろがみさま」  夢うつつに呼びかければ、烏はぴたりと羽ばたきを止め、白神様は絹糸のような髪を揺らして澄也に視線を向けてくれる。なだめるように髪をすかれる感触が、心地よくてたまらなかった。 「起きてしまったかな? ……まったく、この馬鹿烏のせいで……」 「からす……?」 「なんでもないよ。お眠り、坊。まだ朝には遠いよ」    夢ならどうか、もう一度名前を呼んでくれやしないだろうかと思ったけれど、夢の中までこのひとはつれないらしい。  誰かに頭を撫でてもらうのは、どうしてこんなにも幸せな気分になるのだろう。瞼が重くて持ち上がらない。己の寝息を聞いたと思ったときにはもう、澄也は深い眠りに引きずり込まれていた。

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