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第28話 これは恋かと問いかける⑥
空が赤くなり始めた時間帯、いつものように澄也は奥まった場所にある小屋の扉をくぐる。部活で時間を食ってしまったから、普段と違って家には寄らず神社に直行した。
「ただいま」
「おかえり、坊。今日は遅かったね」
「部活。苗を植えてきたから」
「ああ、そういえばそんなことを言っていたねえ」
「うん。ひまりに手伝ってもらって、ブルーベリーを植えてきた。うまく育てば来年の夏には実がつくんだって」
「上手に育てられるといいねえ」
穏やかに微笑む白神様に笑みを返しつつ、澄也は並べられた食事の前に座る。手を合わせたその時、唐突にはらりと白い髪が澄也の肩に落ちてきた。
目だけで振り向くと同時に、心臓が止まりそうになる。
いつの間にこんなにも近くに来ていたのか、まつ毛の一本一本が見えるほど近くに白神様の顔があったのだ。澄也に後ろから覆いかぶさるようにして、白神様は鼻を澄也の首筋に近づけていた。
「し、ろがみさま。どうしたの」
「いつもと香りが違うから、気になっただけだよ」
「部活帰りにそのまま来たから」
「そうだねえ。土の香りもするけれど……どうしたんだい。お食べ、坊」
食べろと言われても、味が分からなくなりそうだった。背から体温が伝わってきそうなほどの近い距離と、白神様が動くたびに首をくすぐる髪の感触。気にするなと言われても無理だった。顔が勝手に熱を持っていく。
狂いそうな手元を必死で制しながら、白神様が用意してくれた食事をきれいに平らげる。普段であれば、白神様は早々に食べ終わるユキとじゃれて遊んでいるというのに、今日はそれもしていない。
ユキを外に追い出したかと思えば、白神様はどこか不機嫌そうに口を開いた。
「ヒトの気配がする。友だちができたのかい」
「友だちっていうか……か、彼女が、できた。ひまりと付き合うことになったんだ。小さなころによく遊んでた、近所の子だよ。同じ学年の」
妙な気恥ずかしさと罪悪感で、声が震えた。それが白神様に対してのものなのか、はたまたひまりに対してのものなのかは分からなかった。
ひまりには世話になっている。放課後、付き合おうと言い出したひまりの様子はどこかおかしかった。正しくない関係を長く続けるつもりはないけれど、澄也にできることがあるなら、何かをしてあげたいと思ったのだ。
「……ふうん」
「白神様?」
聞いたこともない、平坦な声だった。ざわりとした不安に駆られて、うつむいていた顔を上げる。まっすぐに澄也を見つめる白神様はいつもと同じ、優しい微笑みを浮かべていた。そのはずなのに、金色の目の奥だけが、ひどく冷たい光を宿している。
「お前のものではない匂いがすると思えば、子どものころに一緒にいたあの娘か。仲たがいしていたと思ったけれど」
逃げる間もなく腕が伸びてきて、片手で顎を掴まれる。首筋に鋭い爪が当たって、ぞくりとした寒気が背筋を走った。いつの間にか、白神様は笑顔を消していた。
――怖い。
見慣れない顔に恐怖を抱くと同時に、白神様は何かを確かめるように澄也をのぞき込んでくる。
「こういうことを、もうしたの?」
「す、るわけないだろ。黒いやつが悪さをしたんだ。植木鉢が降ってきて、ひまりに当たりそうだったから、危ないと思って」
「守ってあげたのか。坊は偉いねえ」
なめらかな指が、するりと澄也の頬を撫でた。言葉とは裏腹に、まったく褒められている気がしない。
「美しい姿。美しい心。正しい行い。半端な生き方しかできないものほど、お前の無垢な魂に惹かれるのだろうね」
「な、に? いきなりどうしたんだ、白神様」
「口吸いはした?」
問われた瞬間、澄也を見上げてきたひまりの顔を思い出し、さっと頬に血が上った。
「してない」
「肌に触れた? 女とまぐわいたいと、組み敷いて体を繋げたいと、清らかなお前でも、いつか思うのかな」
掴んだひまりの腕を細いと思った。澄也よりずっと柔らかく小さなひまりの手は、生まれついた性別の差をまざまざと感じさせた。たしかにそう思ったけれど、白神様が揶揄するような、そんな目でひまりを見たことなど一度もない。かっと頭に血が上った。
「何の話をしてるんだよ! そんな、そういうのじゃない。ひまりだってそんなこと思ってない」
「遅かれ早かれそう思う。気持ちを向けるというのはそういうことだ。お前は好意と欲が近しいようだから」
「そんなの――!」
澄也が気持ちと欲を向けているのは白神様だけだ。大好きだと何年も何年も伝え続けているというのに、どうしてそんな意地悪なことを言うのだろう。けれど澄也がそれ以上口を開く前に、感情の消えうせた声で白神様が呟いた。
「許さないよ。まぐわえば混じる。お前の魂にはどんな混ぜ物も必要ない」
「白神様?」
「堕ちるまで待とうと思っていたけれど、育て過ぎたか」
金色の目の中の瞳孔が、きゅう、と縦に細まっていく。言っている意味が分からない。なぜ白神様がこんなにも怒っているのかも、分からない。
「はなして――はなせ!」
「あはっ、今さら私を拒むのか? 遅いよ、もう」
力を入れている様子なんてまったくないのに、澄也が全力で抵抗しても、身動きひとつできなかった。ユキが気付いてくれやしないかと窓を見るけれど、使い魔の姿は近くにない。
「腹が立つ。横からかすめ取られるくらいなら、今ここで――」
唇から零れ出た牙から、目を離すことができない。ふわりと抱きすくめられたまま、ゆっくりと白神様の顔が近づいてくる。首筋に熱い息を感じた。
しかし、牙が澄也の肌に食い込もうとした瞬間、空気を叩き切るような怒声が響き渡った。
『この馬鹿者!』
雷が落ちたような衝撃に、澄也はわけもわからず身を竦める。窓を突き破る衝撃音とともに、場違いなほど小気味良い音がスコーンと響き渡った。
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