31 / 98

第29話 これは恋かと問いかける⑦

 目の前で白神様がよろめき、澄也の動きを封じていた腕が緩んでいく。  何が起こったのか分からない。窓を破るようにして飛び込んできた白い烏は、澄也と白神様の間に素早く入り込んできたかと思えば、ばさばさと激しく翼を動かした。 『何をとち狂っておるのだ! いい年をして子どもに嫉妬か、見苦しい!』 「…………糞爺が。邪魔をするな」  尻もちをついたままぽかんと口を開ける以外、澄也に何ができただろうか。見たこともないほど怖い顔をした白神様は巨大な烏を睨んでいるし、座りこんだ澄也と同じぐらい大きな白い烏は、ぎゃあぎゃあとわめき続けている。 「いつも喋ってくれないのに」  それも衝撃的ではあったが、白神様に視線を戻した瞬間、どうでもよくなった。  真っ白な白神様の髪の一端が、赤く染まっていた。こめかみからどくどくと血が流れている。 「白神様! 血が……!」  もつれる足で慌てて立ち上がり、棚から布をひっつかむ。白神様の隣に駆け寄った澄也は、おろおろと布を白神様のこめかみに当てた。 「押さえてて! どうしよう。包帯か何かあるかな。血が止まらなかったら病院に行かないと」 『澄也! お主はこやつが何をしようとしていたか分かっておらんのか! 近付くんじゃない!』 「そんなの今はどうでもいいだろ! 怪我してるんだぞ!」    ばさばさと翼をはためかせる烏に、澄也は一喝する。普段無口な烏が喋っていようが何だろうが、そんなことは今はどうでもいい。怪我をどうにかする方が先だ。  ともすれば今から取っ組み合いでも始めかねない雰囲気だった烏と白神様は、ぽかんとして澄也を見た。無謀にも二者の間に割り込んだ澄也は、己の命が危うかったことも、それを辛うじて救われたことにも気付かないまま、ぱたぱたと小屋の中を見て回っていた。 「こんなに大きなくちばしでつつかれたなら、傷口も深いかもしれない。救急のある病院が、たしか高校の近くにあったはずだから……」 「く」 「白神様? どうしたの?」  おかしな音を漏らした白神様を澄也はじっと見上げる。痛みがひどいのかと慌てて白神様の傷口を見ようとしたけれど、流れる血のせいでよく見えない。ただただ白神様の怪我の具合だけが心配で、ほかのことなどすっかり澄也の頭から抜け落ちていた。 「く、くっくっく、ふ、あはは!」  肩を震わせた白神様は、やがて目尻に涙が浮かぶほど激しく笑い出した。頭を強くつつかれすぎてしまったのかと心配になったとき、ぐいと強く腕を引かれて抱きしめられた。肩に白神様の顔が乗せられたかと思えば、ぱしぱしと軽く背を叩かれる。 「うわっ」 「坊。坊。お前はなんて優しいんだろう」 「白神様、怪我の手当てを――」 「あの程度、もう治ったよ」  その言葉に、澄也はおそるおそる布で白神様のこめかみの血を拭った。見れば言葉通り、白神様の皮膚には傷跡ひとつ残っていない。 「よかった……」  ほっと安堵の息を吐く。先ほどまでの冷たい笑みとは違う、いつも通りの優しい笑みを浮かべて、白神様は澄也をぎゅうと抱きしめた。 「怖がらせてすまなかった。お前は私が大好きだものね。たかだかヒトの子ひとりが汚せるものか」 『本当にな』 「糞爺は黙っていろ」  目を白黒とさせていると、烏を追いかけてきたらしいユキが小屋に飛び込んできた。澄也の肩の上に素早く登ったユキは、なぜか白神様を睨みつけて威嚇している。いつもより激しい鳴き方ではあるが、ユキが白神様を威嚇するのは珍しいことではない。撫でて宥めてやりながら、澄也は困り果てて眉尻を下げた。 「白神様、なんで怒ったんだ? 俺、何か嫌なことを言った?」 「怒っていないよ」  嘘つき、とは思ったものの、白神様がそう言うならばそういうことにしたいのだろう。   「坊は何にも悪くない。少し虫の居どころが悪かったんだ。八つ当たりをしてすまなかった」 「そっか」 「許しておくれ、愛しい子」 「いいよ。気にしてない。怖い顔もきれいだった」  言いながら、ふといたずら心が湧いた。澄也ばかりが心臓に悪い目に遭うのは不公平ではないだろうか。  後から思えば、色んなことが一気に起こったせいで、澄也の頭のねじも外れていたのだろう。普段であれば決して超えなかったであろう一線を、そのときの澄也はいともたやすく踏み越えてしまった。  白神様の両頬を両手で挟む。なめらかでしみひとつない肌は、澄也の手のひらよりも少しだけ温度が低かった。不思議そうな顔をする白神様の目をじっと見つめながら、澄也は少しだけ伸びあがる。  一秒にも満たない間、澄也はいつもの仕返しのように白神様の目尻に唇を触れさせた。先ほど噛まれかけた首筋を、わざと見せつけるように白神様の口元に置く。  欲しいならば、白神様だって澄也に求めてくれればいいのだ。子どものころ、アメよりも血を欲しがったおかしな神様の言葉を、澄也だってちゃんと覚えているのだから。 「血が欲しいなら、飲んでもいいよ。白神様が俺の神様になってくれたときから、俺はあなたのものだ。白神様になら、何されたって別にいい」  うっかりと言葉を零して――直後、目を見開いた白神様の顔を見て、澄也は己が何を口にしたのか気が付いた。急に恥ずかしくなって、頬が熱くなる。 「ごめん、俺、調子に乗った……!」 「ああ、いや、構わないけれどね」  虚をつかれたような白神様の表情が、かわいいと思った。穏やかに甘やかしてくれる保護者の顔より、ずっといい。思ってしまった途端に顔が熱くなって、澄也は転がるように踵を返し、扉を開ける。 「俺、帰る。また来るから! じゃあね、白神様! 烏のおじいさんも、また!」  返事も聞かずに澄也は駆け出した。

ともだちにシェアしよう!