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第30話 これは恋かと問いかける⑧

 鳥居をくぐるまで健気に唸り続けていた子狐を見送って、八咫烏はいらいらと口を開く。 『おい』 「……」 『おい、いつまで呆けておる。この阿呆鬼が!』  扉を見つめたまま動かぬ白鬼の背中を、足で小突いて蹴り飛ばす。数歩たたらを踏んだ白鬼は、どこか呆然とした顔をしたまま、ぽつりと口を開いた。 「……あんな顔もするのか……」  あからさまな熱を含んだ声に、八咫烏は顔を盛大にしかめた。 『小娘に見苦しい嫉妬をした後は、口付けひとつで呆けるのか。このショタコンが。あの子に貴様の汚い手で触れてみろ。今度はくちばしひとつでは済まさんぞ』 「ショ……何?」 『なんだ、知らんのか。少年趣味という言葉だ』  普段はこちらを爺呼ばわりするくせに、この白鬼だって大概物を知らないのだ。ふん、と鼻を鳴らして、八咫烏は胸を張った。 『どちらが爺か分からんな。長く地獄に引きこもりすぎたのではないか? 貴様も現代の価値観を学び直した方が良いぞ』 「うるさい。第一私は子どもに興味はない」  ならばなぜ今もだらしのない顔をしているのかと余程言ってやりたかった。   『何が子どもだ糞鬼め。あと二年も待てば、あの子は十八になる。現代社会でいうところの大人だぞ。そうなったら手を出すとでも?』 「さあ。気が向けばそうするかもね。でも、どうだろうと関係ないだろう。どの道最後は喰って終わりだ」 『途方もない大馬鹿者だな』 「何?」  本気で分かっていないらしいその顔に向かって、八咫烏は聞えよがしにため息をついた。  白鬼とは古くから縁がある。享楽主義の白鬼の姿は見ていて飽きない。魂が穢れる直前まで手元で守るのだと言って澄也を囲い込んだときにも目を剥いたものだったが、その後十年間の白鬼の献身ぶりには、慈悲深いと言われる八咫烏をして顔を引きつらせることしかできなかった。  毎日手ずから食事を与え、話を聞き、澄也が歪まぬようにと慣れぬ道徳まで教え込む。人を堕落させて喰らう鬼が愛と行為の美しさを説いていたときには、笑いを通り越して真顔になったくらいだ。器と魂を極上の状態に保つためだと白鬼はうそぶくけれど、とうにその行動が家畜の飼育の範囲を超えてしまっていることに、本人だけが気づいていない。 「私のものだ」    ぼんやりと呟かれた言葉に鳥肌が立った。  鬼というものは、元来執着が強い生き物だ。白鬼の所業を逐一把握しているわけではないけれど、澄也が幼い時分に家でも学校でも孤立していたのは、白鬼が一枚噛んでいると八咫烏は確信している。何しろ幼馴染と淡い付き合いを交わすと澄也が告げただけで怒り狂うほどの心の狭さだ。他人と交流して色んな経験をしろなど口先ばかりで、その機会を奪って己に依存させようと仕向けていても、今さら驚きやしない。  気まぐれで自分勝手。鬼というのはそういう生き物だ。  黙り込み、ぼんやりと壁にもたれかかっていた白鬼は、やがて唐突に喉を鳴らして笑い始めた。頬は薄桃色に上気して、色情鬼とも呼ばれる白鬼らしい色香を醸し出している。どこか遠くに視線をやっているところからして、大方家に帰った澄也のことでも眺めているのだろう。本人いわく暇つぶしらしいが、現代ではそれはストーカーと呼ばれる犯罪行為であると何度言っても聞きやしない。鬼の視線を叩き落とせるくらい、子狐が強く育つことを祈るばかりだ。 「ああかわいい。あんな接触ひとつで頭を抱えて、いつまでたっても物慣れないねえ。真っ白な澄也。いくつになっても純粋なまま変わらないのだから、たまらない」 『……何度も言うが、貴様の監視行為をあの子には言うなよ。というかいい加減にしろ。気色が悪い。いくらなんでも愛想をつかされるぞ』 「関係ない。澄也が嫌だと言っても逃がすものか。私が見つけて私が育てた。あれは私のものだ。澄也だってそう言っていたじゃないか」 『何が育てただ。百歩譲って今の年齢まであの子を守ったのが貴様の功績だとしても、赤子が突然生まれるか? 赤子が勝手に幼児になるか? 母君の苦労を知りもしないくせに、ぬけぬけと』 「知らないねえ。興味もない。途中で澄也の手を放したのはその母親で、私の手を取ったのは当の澄也だ。血も肉も骨も魂も、あの柔らかな心だって、誰にもやらない」  ぎらりと金色の目を輝かせて白鬼は言う。空恐ろしいほどの執着に、本人だけが気付いていない。欲の源がとうに食欲ではないものへと変わってしまっていることに、この間抜けな白鬼はいつになったら気づくのだろう。 『そんなにも気に入っているのなら、名前くらい呼んでやればいいだろうに。坊と呼ぶたびあの子が傷つきむくれていることに、まさか気付いていないわけではあるまいな』 「だってかわいいんだもの。あの物欲しげな目がかわいくて、何度でも見たくなる」 『……かわいそうに』  カアと一声鳴いて、八咫烏は空へと舞い上がった。 『本当に、哀れな子だ』  高く空に昇った八咫烏は、同情の声を夜空に響かせた。喰われるか弄ばれるか。いずれにせよ、鬼に深く魅入られたあの子は、人としてまともに死ぬことすら望めないだろう。  人を見守る神の一端として、八咫烏はせめて澄也が長く平穏のうちに生きられることを、ただ願った。

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