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第35話 秋祭り⑤

 目が回ったと言った澄也を気遣ってか、デートといいながらも、山側の人通りの少ない道をひまりは選んだ。のんびりと歩きながら、ひまりは道脇にぽつぽつと開かれている屋台を覗いていく。 「りんごあめだ。澄也も食べる?」 「どれのこと?」 「あれだよ。ちょっと待ってて」  そう言って会計を済ませたひまりの手には、つやつやと輝く飴が一本握られていた。正直なところ、食べ物はもう十分だ。飴にかじりつくひまりを見ながら、澄也は頬を引きつらせた。 「大きいな。見てるだけで腹が膨れそうだ」 「中は姫りんごだから、そんなでもないよ。一口どう?」 「腹が限界だからやめておく。……ひまり、顔に飴がついてる」 「え、嘘。どこ?」  見当違いの場所を一生懸命擦っているひまりに苦笑しながら、「ここ」と澄也は指を伸ばす。ひまりの頬から飴のかけらを払ってあげようとした瞬間、唐突にひまりの様子が変わった。先ほどまでのふるまいが幻だったかのような無表情で、ひまりは澄也を見上げてくる。 「どうかしたのか?」  様子がおかしかった。先ほどまでたしかに光を持っていたはずの両目はうつろで、まるで生気が感じられない。   「……ねえ、キスしようよ」  らしくもない甘えるような声で、ひまりはぽつりとそう言った。 「好きなの。大好きだよ。遠くに行くから無理だなんて、嘘だよ。本当は大丈夫だって言ってほしかっただけなの」 「……ひまり? どうしたんだ、何か――」  飴を落としたひまりは、ほとんど澄也の胸倉を掴むようにして距離を詰めてきた。目を伏せたひまりがぐっと背伸びをする。けれど次の瞬間、ひまりは不思議そうに目を開き、ぱちぱちと瞬きをした。澄也がひまりの口元を覆ったからだ。  傷ついたように両目を細めたひまりは、ついで苛立ったように顔を歪めて、澄也の手を剥がそうとした。澄也に手を外す気がないと見るや、ひまりは両手を使って澄也を抑えつけようとしてくる。 「放して!」  女性のものとは思えないその力に、違和感が強くなる。何が起きているのか分からないながらも、澄也はひまりを落ち着かせようとした。 「どうしたんだ、ひまり!」  しかし、ひまりは澄也の声など聞こえていないかのように嘆き続ける。 「蓮くん、どうしてここにいたの。ひとりだったの? 友だちと来たの? それとも新しい彼女?」 「蓮くん?」  様子がおかしいとは思っていたけれど、祭りの中で見かけでもしたのだろうか。しかし、尋ねる余裕はない。一筋の涙を流したひまりは、目を見開いたまま今度は「澄也」と名前を呼んだ。 「考えたくないの。忘れさせてよ。私たち、そのために恋人になったんでしょう。恋人ならキスしてよ」  髪を振り乱して澄也に掴みかかる様子は痛々しい。おまけに言っていることは支離滅裂で、明らかに正気とは思えなかった。 「そうだな。『恋人』だ。でも、したくないことを無理にする必要はないと思う」 「私には興味がない?」 「かわいいと思うよ。でもキスしたいとは思わない。ひまりだってそうだろう。本当にしたい相手は違うはずだ」  澄也の言葉を聞いた途端に、ひまりはくしゃりと顔を歪めた。 「恋人なのにデートもキスもしてないなんて変だって、みんな言うのに?」 「関係に名前がついたら、何かをするのが義務になるのか? 何をして何をしないかって、俺たちが決めることだろう。周りの誰かが決めることじゃない」 「きれいごとばかり。そういうところが大嫌いだよ、澄也」  ひまりはうつろな声で呟いた。ひまりの声で、ひまりの言葉だ。今まで言わなかっただけで心の底ではそう思っていたのだと言われれば納得できる。けれどこんなやり方は、いつものひまりらしくない。  何か原因があるはずだ。そう思って目を凝らした瞬間見えたものに、ぎょっと澄也は身を強張らせた。 「ひまり。それ、いつから……」 「どうしたの、澄也」  黒い霧がひまりに絡みついていた。首に手を掛け、ひまりの体をどす黒く染め上げようとしていた。喋りもしないくせに見ているだけで怖気が立つような魔物は、昔、高松に絡みついていたものと同じ魔物だ。  ひまりの様子がおかしいのは、これのせいだ。澄也は覚悟を決めるようにぐっと拳を握り、足元の使い魔に呼びかける。 「……ユキ」 『うん。ユキ、たべていい?』  今の今まで屋台で買ったものを食べ続けていたというのに、魔物まで食べる気なのだろうか。緊張感のない言葉に顔をひきつらせながら、一応聞いておく。 「魔物だけ食えるのか?」 『ニンゲンもすこしとれちゃうかも』 「じゃあダメだ」  恐ろしいことを言う使い魔を止め、代わりに澄也は前に出た。 「俺が剥がすから、あの黒いやつだけ燃やして。できるか」 『わかった』  魔物をおびき寄せることなど簡単だ。体を差し出せばいいだけなのだから。ひまりの肩を押さえ、黒い魔物に触れた瞬間、霧状の魔物はがばりと澄也に襲いかかってきた。  腕に食いつかれて激痛が走ったけれど、澄也は体を揺らすだけで耐えきった。魔物がしっかりと食いついたところを見計らって、澄也はひまりと魔物の間に体を滑り込ませるようにして魔物を剥がす。  その瞬間を逃さず、小さな使い魔は大きく口を開けた。威嚇の声とともに、青白い狐火が黒い魔物を焼いていく。  不気味な魔物が焼き尽くされたことを確認して、澄也はそっとひまりを振り返った。 「え……何これ、魔物? なんでこんなところに……? あ、わ、わたし……なんてことを」    ひまりの顔は真っ青だった。その目に理性的な光が戻っていることを確かめて、澄也はほっと安堵する。指先を伝い落ちる血をユキになめさせながら、澄也は首を振った。 「ひまりのせいじゃない」 「でも」 「そんなことより、こういうこと言ったらまた嫌われそうだけど、やっぱり納得いくまで確かめなくちゃ、分からないこともあるんじゃないか」 「え?」  ぽかんとした顔で澄也を見上げるひまりの背を押して、さりげなく澄也はひまりをこの場から離そうとした。 「蓮くん、祭りに来てるんだろう。せっかく同じ場所にいるなら、言いたいこと全部、言ってきたらどうだ。休みで戻ってきただけなら、きっと今話さなきゃ話せなくなる。こんなにかわいいひまりに話そうって言われたら、蓮くんだって絶対頷くよ。だから、行っておいでよ」    痛みに汗が滲んでくる。澄也の様子に気がついたのか、ひまりは訝しげに瞳を揺らしていた。けれど、澄也だって格好くらいつけたかった。   「澄也、顔色悪いよ。怪我したんじゃ――」 「腹が限界で」  嘘はついていない。別に痛めてはいないけれど、かなりの量を食べたせいで満腹なのは事実だ。わざとらしく腹をさすって見せれば、ひまりは慌てたように「トイレはあっちにあるから」と指で指し示した。 「食べ慣れないもの食べたせいかな? 大丈夫?」 「平気。だから、ひまりは行って。また明日、学校で話そう」  手を振って笑みを張り付ける。腹が限界だと言ったことが功を奏したのか、ひまりは疑わしそうな顔をしながらも人通りの多い場所へと戻ってくれた。  その背中を見守った後で、即座に澄也は踵を返す。行き先は、祭りの会場と逆側にある、神社だ。血を流した瞬間から、澄也の耳は望ましくない声をいくつも拾っていた。  自分は、狙われている。 『おいしそうな匂いがする』 『ひとりだ』 『今なら』    不気味な声がいくつも聞こえてくる。健気な使い魔は絶え間なく威嚇の声を上げているけれど、ユキだって一匹で何体も相手にできるほど強くも大きくもない。早めに神社に逃げ込んだ方が良いだろう。祭りの会場の近くにいたら他人を巻き込みかねない。  足にまとわりつくものが魔物なのか草なのか、確かめる余裕さえなかった。ユキを宥めながら澄也はひたすら前に向かって走り続ける。気味の悪い囁き声が脳を揺らすようにうるさくて、めまいがした。  とうとう足をもつれさせ、澄也は転びかける。けれど、地面に倒れ込むはずだった体に痛みはない。ふわりと当然のように抱き留められると同時に、あんなにもうるさかった魔物たちの声は、いつの間にかひとつも聞こえなくなった。 「危なくなったらお呼びと言っただろうに」  嗅ぎなれた桃の香りに、澄也はほっと力を抜いた。

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