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第36話 秋祭り⑥
真っ白な髪は夜でもうっすらと光って見える。『おそい!』ときゅうきゅう鳴きながら白神様にまとわりついているユキを見ながら、澄也はふらふらと立ち上がった。
「行けると思ったんだよ。前よりは成長してるだろう? 俺もユキも」
「自分を助けてから他人を助けなさい。私にとってはあんな小娘より坊の方がずっと大切なんだ」
じとりと据わった視線が痛い。けれど大切だと言われたことがこんな状況でも嬉しかった。むずかゆい照れを隠すように、澄也はつらつらと言葉を吐き出していく。
「白神様の言った通りだった。よくない魔物が普段より多かったよ。でも、祭りは面白くて……俺、金魚すくいっていうのを初めてやったんだ。お面ももらったし、ヨーヨー釣りとか射的とか色々あって――」
「分かった分かった。後でゆっくり聞かせてもらうから、まずはその腕をお出し」
「腕?」
言われてようやく思い出す。そういえば食いつかれていた。だらだらと流れる血を見た途端に、忘れていた痛みを思い出す。
「痛い!」
「痛いだろうさ。血が出ているんだから。お前に食いつく身の程知らずがいるとは思わなかった。雑魚でも人に取り憑くとたちが悪いね」
白神様に言われるがまま袖をまくる。不機嫌そうに噛み跡を見た白神様は、あろうことか止める間もなく顔を伏せ、噛み跡から流れる澄也の血を当然のように舐めとった。赤い舌が澄也の肌を這う様に、視線を嫌でも絡み取られる。息をすることさえはばかられて、硬直しながら澄也はじっとその光景を見つめていた。
「ああ腹が立つ。百歩譲って使い魔は許すけれど、他に食わせるな」
「ごめんなさい」
反射的に謝っていた。言い回しに違和感はあったものの、考える余裕はない。白神様が傷跡に舌を這わせるたび、痛みとともに得体の知れない感覚が走る。白神様の着物の合間から覗く喉仏が上下するたび、背徳感とも罪悪感ともつかぬぞくぞくとした気持ちが背筋を這い上がる。化け物に食いつかれていたときの嫌悪感とは真逆の恍惚とした喜びに、頬が熱くなって仕方がない。
澄也の腕を汚していた最後の一滴まできれいに血を舐め取って、白神様は満足そうに目を伏せた。知らず口内に溜まっていた唾液を、澄也はひそかに飲み下す。
ああ、これだと思った。
澄也が求めているもの。ひとりでは抱えきれないもの。ひまりが恋と呼んだもの。
恋人なんてあやふやなものでは到底足りない。血の繋がった家族にさえ見捨てられたというのに、友人や恋人なんて空しい名前をつけたところで何の助けになるはずもない。
捨てられるのが怖いのならば、血の最後の一滴まで捧げればいいのだ。このひとの一部になれれば、一生一緒にいられるのだから。
いつのまにか痛みが消えていることにも気づかないまま、澄也はうっとりと白神様に見惚れていた。長く透き通ったまつ毛がゆっくりと持ち上がっていく様を、ただ見つめる。
「……傷は塞がったね。いいかい、助けを呼ぶことも、誰かを頼ることも恥ではない。坊が頑張っていることは知っているけれど、危ないときまで意地を張らないでおくれ」
返事ができなかった。黙り込んだままの澄也に苛立ちを隠そうともせず、白神様が眉間にしわを寄せる。じとりと睨まれ、慌てて澄也は口を開いた。
「あ、ありがとう。白神様」
「礼はいらない。ちゃんと聞いていた?」
「聞いてた。意地は張らない」
弁明するように両手を上げて、澄也は血と泥で色を変えた袖口に気づいた。せっかく着せてもらったものなのに、汚してしまった。
「ああ……せっかく貸してもらったのに。着物、汚してごめん」
「そんなことはどうでもいい」
謝っただけなのに、なぜか白神様はますます不機嫌そうに顔を歪めてしまった。不機嫌の理由が分からない澄也は首をすくめることしかできない。これ見よがしなため息をついて、白神様は言葉を足した。
「物はいくらでも手に入る。代えだってきく。気になるなら洗えば済むし、坊の丈に合わせてあるから、それはもう坊のものだ。謝ることは何もないよ」
「……うん」
歩き始めた白神様の背を追って、澄也はふらふらと歩き出す。ぼんやりと歩いている途中で、そういえば、と首を傾げた。引っかかっていたことがある。
「白神様、『悪意を好む悪食』って前に言ってたよな。あれ、どういう意味だ?」
心の奥底をそのまま晒してしまったかのようなひまりの様子を思い出しながら、澄也は尋ねる。
「うん? ああ。あの雑魚か」
「雑魚っていうには嫌なやつだったけど」
澄也の言葉は聞き流された。ちらりと感情の読めない流し目を澄也に向けたかと思うと、白神様はまたすぐに前を向いてしまう。
「悪意は悪意だよ。清らかなものに惹かれるくせに近づけるだけの力がないから、奴らは代わりに馴染みのあるものに寄っていく。嫉妬や劣等感、恨みに憎しみ……いわゆる負の感情につけ込んで、ヒトの背をほんの少しだけ押してやるのさ」
「背を押すって?」
「普段であれば踏みとどまるところを踏み越えさせる。いわゆる魔が差すという状態を引き起こすということだね」
「憑りついた人を操るわけじゃないのか」
「あんな小物にそんなご大層なことができるものか。坊が見たものは、もともとその者の中にあった感情だよ」
「ふうん」
納得はできる。
澄也が気に入らないと言って痛めつけようとした高松。
忘れたいのだと言って、迫ってきたひまり。
あの黒い魔物に憑かれたどちらの被害者も、言動こそ極端なものになっていたけれど、たしかに人が変わってしまったわけではなかった。
(あれ……?)
そこまで考えたとき、ふと記憶の片隅に引っかかるものがあった。もっと小さなころ、澄也は誰かにまとわりつく似たような黒い影を見やしなかっただろうか。
――本当に気味の悪い子ども。あんたがおかしなことを言うせいで、あの人は他の女のところに逃げた。あんたがいるせいで金はかかるし、男は逃げる。何度言っても人でないものに会いに行ってしまうし、もう疲れた。あんたなんて生まなければ良かった。
――神社。神社。神社。いっつもそればっかでつまんねえんだよ! 同じものが聞けない俺が悪いのか? 行こうって言ったのが悪かったのかよ? 俺を見てくれないなら、お前なんていらない!
そうだ。ずっと昔、母と健の背にも同じような影がまとわりついていた。黒い霧の魔物は澄也を襲うこともせず、気づいたときにはいなくなっていた。だから忘れていた。
田舎にはそうそういない魔物だと白神様は言った。見るとしたら森の奥くらいだと言ったはずだ。高松は分かる。おかしくなった前日に森に実習に行ったから、きっとそこで憑かれたのだろう。ひまりだって、憑りつかれたのは森の奥と言えば森の奥だし、人の多い祭りの日だからそういうこともあるかもしれない。
けれどなぜ、母と健は憑りつかれたのだろう。
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