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第37話 秋祭り⑦
「――坊?」
びくりと肩を揺らす。いつの間にか足を止めていたらしい。白神様が訝しげに澄也の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだい。顔色が良くない」
「あ……、あはは、なんだろう。今さら怖くなってきたのかな」
母はもともと澄也を不気味がっていた。食事をもらえなくなった澄也を憐れんだから、白神様は澄也に恵みを与えてくれるようになったのだ。
健だって、昔から気性が荒かった。健が嫌な絡み方をしてくるから、孤立した澄也は優しい白神様のもとに通うようになったのだ。そのはずだ。
(そう、だよな?)
記憶の中の言葉と、澄也の認識している時系列は食い違う。けれど幼いころの記憶など、怪しいものだ。首を振っておぼろげな記憶を振り払い、澄也はごまかすように歩き出した。
「もう平気だから。行こう、白神様。花火がもうすぐ――うわっ」
石に足を取られて転びかけたところを、腕を掴まれ引き戻される。自然、澄也は顔から白神様の胸元に突っ込むことになった。
「夜目が利かないのなら、ゆっくり歩きなさい。転んでしまうよ」
「あ、りがとう」
当たり前のように手を取られ、ゆっくりと歩き出す。繋いだ手を見て、澄也は落ち着かない気分になった。手のひらを合わせたことはある。手を引いてもらったことも。
けれどこんな風に、夜の道をふたりで歩くのは初めてのことだ。
白神様はただ、子どもの手を引いているだけのつもりなのだろう。澄也がどんな気持ちなのかなんてきっと知りやしない。その証拠に、ただ手を繋いだだけでじわりと手のひらに汗を滲ませている澄也とは違って、白神様の手はさらりと乾いたいつものままだ。その差が悔しかった。
悔しまぎれにそろりと指を開く。繋がれた手をほどかぬまま、澄也はそっと白神様の指に自分の指を絡ませた。
白神様が澄也を見る。けれど白神様はくすりと小さな微笑みを零すだけで、何もしなかった。
「……白神様、どこに行くんだ?」
「沢沿いに。お前をどこかに連れて行ってやったことはなかったからね。近場だけれど、こちらへはあまり来ないだろう? 坊の見たがっていた花火も見えるよ」
神社と逆側の麓には、小さな沢がある。澄んだ水が美しいと聞いたことはあるけれど、森を通らなければいけないから、澄也は行ったことがない。影の多い場所には魔物が潜みやすいからだ。わざわざ好き好んで危険に近づこうとは思わない。
同じ理由で、澄也は夜も余程の理由がなければ外には出ない。夜に森を歩いている状況そのものが新鮮で、どきどきとした。
鈴虫が鳴いていた。歩くたびに鼻に届く、土と落ち葉の香りが芳しい。繋いだ手があたたかい。いつも神社の小屋でしか一緒に過ごして来なかったからか、白神様と並んで歩けるだけで澄也の心は浮かれていた。
「お前の魂は悪意を引き寄せる。外が苦手だったのではなく、ひとりでは行けなかったのだと、もっと早くに気付いてやれば良かったね」
そんな白神様の言葉とともに、ちょうど森を抜ける。開けた場所に出るや否や、澄也はほうと息を吐き出した。
静かで美しい場所だった。阻むもののない空は、見上げると解放感がある。草に囲まれた小川の流れは緩やかで、夏に来たならば蛍が見られたかもしれない。さらさらと流れる水の音に好奇心をくすぐられたのか、足元を歩いていたユキが興奮したように駆け出していく。
澄也たちのほかに、人はいないようだった。祭りの会場は山の逆側だから、わざわざこちらに来る人はいないのだろう。土手に並んで座り、回った屋台と戦利品について話しているうちに、花火が上がり始めた。瞬きの間、水面に反射する色とりどりの光が美しかった。
「祭りは楽しかったかい? 坊」
「うん。楽しかった。今も白神様が来てくれて、すごく嬉しい」
先ほどまで考えていたことはすっかり頭から抜けていた。幸せな気分で、上機嫌に澄也は笑う。ひまりの言葉を借りれば、これも浴衣デートになるのだろうか。
――ひまりはちゃんと言えただろうか。
想い人の姿を見かけただけで、ああまで動揺したのが恋心のせいだというのなら、恋というものはかわいらしいのに恐ろしい。感動に近い気持ちを覚えていたからこそ、それを白神様にも共有したくて、澄也は何も考えずに口を開いた。
その時の澄也は、ひまりと付き合うと告げた瞬間、目の前の相手がどんな反応をしたのかさえすっかりと忘れていた。
「白神様。そういえばひまりが――っ!」
幼なじみの名を出した途端、言葉を封じられた。体温の低い手のひらが、澄也の口を覆っていた。息が苦しい。口が動かない。ほとんど顔を掴むような勢いで、白神様は澄也の口を封じていた。
「今はお前の口から他の者の名前を聞きたくないねえ」
普段と変わらぬ声音で紡がれた言葉は、けれどいつもの柔らかさを失っていた。笑みの形をとってはいるけれど、目の奥が冷え切っている。つり目がちな金色の目は、暗闇の中でぎらりと際立って見えた。
「私はね、自分のものを横取りされるのが一番嫌いなんだ。血の一滴でも我慢ならない」
怖いくらいに綺麗なひとだと間近で見るたびそう思う。見惚れると同時に、ぶるりと勝手に体が震えていた。驚きや恐怖のせいもあるけれど、見慣れぬ表情を見られた喜びの方がはるかに大きい。
けれど、気分屋の白神様がこうして外に来てくれたのだ。怒った顔も好きだけれど、せっかくならば笑ってほしいと思った。離れていく白神様の指を目で追う。触れてくれた手が離れていくことが惜しくて、澄也は無意識にその指を掴んでいた。
ぴくりと白神様の眉が寄る。隣でじっくりとその顔を眺めながら、澄也は笑った。
「欲しいなら好きにしていいって前にも言った。傷を塞ぐためじゃなくても、血が欲しいならいくらでも飲めばいい。だからそんな顔をしないで」
指を軽く絡めてから離し、そのままの勢いで澄也は白神様の腕を引いた。軽く前のめりになった白神様の体に手を回し、漂う香りをそっと吸い込む。香水をつけているわけでもないのに、白神様はいつも甘い香りがする。桃の香りは大好きだ。同じ香りになれるならそうしたい。
しばしの間固まっていたかと思えば、やがて白神様は呆れたように小さな息をついて、体の力を抜いた。
「私は吸血鬼じゃないんだけどねえ」
「知ってるよ」
「お前が私の何を知っているって?」
「白神様が気まぐれな神様だってことは知ってる」
「馬鹿だね」
「お腹すいてない? お菓子もあるし、血もあるよ」
「いらないよ。さっき十分もらった。お前たちと違って私は大食らいじゃないんだ」
くすくすと低い笑い声が響く。ようやく笑ってくれた。ほっとしながら、澄也は横目で花火を眺めた。
ひと通り辺りを見回って満足したらしいユキが近くではしゃぎ、遠くからは聞き慣れた烏のしわがれ声がかすかに聞こえてくる。普段と違う場所にいるのに結局最後はいつもの面子になるのが少し不思議で、頬がゆるんだ。
その日見た花火は今までになく鮮やかに見えて、目の奥に焼き付くようだった。
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