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第41話 一歩進めば戻れない②

 桃が机の上に転がっているからか、小屋の中には桃の芳香が漂っていた。慣れた香りが、ほんの少しだけ澄也の緊張を和らげてくれる。  豪勢な食事で誕生日を祝ってもらった後で、澄也は床にきっちりと正座をして、白神様に向き直っていた。澄也自身が忘れているときだって、白神様は毎年律儀に澄也が年を重ねることを祝ってくれる。気にかけてくれているのだと思うとそれだけで幸せになるので、これ以上を求めるのは気が引ける。  けれど仕方がないのだ。約束は約束であり、破るわけにはいかないのだから。  改まって座る澄也に不思議そうな顔をしながらも、白神様も澄也に付き合うように居住まいを正してくれた。 「白神様。言いたいことがあるんだ」 「なんだい、改まって」 「実は俺、今日誕生日なんだ」  たった今祝ってもらったばかりだ。何を今さら言っているのかと言わんばかりに片眉を上げながらも、白神様は律儀に返事をしてくれた。   「知っているとも。おめでとう、坊」 「ありがとう」  不自然でない話の切り出し方をしようにも、澄也にそんなことができるわけもない。必然的に、澄也は言うべきことをそのまま伝える以外、取れる手段がなかった。 「今日で十八になったんだ」 「ああ、もうそんな年か。あの小さかった子が大きくなったものだ。ヒトの子の成長は早いねえ」  にこにこと微笑む白神様の前で、澄也は強く拳を握った。これではいつもと変わらない。言うべきことはもうひとつある。 「俺、もう大人だよ」 「大人? お前が?」  白神様は意地悪く唇の端を上げる。ほらな、と内心で思いつつ言葉を待てば、白神様はちょいちょいと澄也を手招きした。  絶対にからかわれるだけだ。分かっていても従ってしまうのはもはや体に染みついた習性だった。食べるだけ食べて満足したらしい使い魔は、面倒事には巻き込まれたくないとばかりにとっくに部屋の隅で丸くなって知らんぷりをしている。  息がかかりそうな距離まで近づくと、白神様は悪だくみでもするようにそっと口を開いた。 「大人にしかできないことをしようか」 「二十歳未満の飲酒は法律で禁じられてる」  間髪入れずに返せば、白神様は心外だと言わんばかりに眉をひそめた。 「坊の前で酒を飲んだおぼえはないよ。お前は私を何だと思っているんだ」 「悪い大人」 「坊が言うところの法律とやらは守ってやっているじゃないか。別に私は酒は好きじゃないし。そうじゃなくて、今のお前に手を出しても、淫行にはならないんだろう?」 「いっ」  吹き出しかければ、にやりと白神様が笑みを深めた。思い通りの反応をしてなるものかと思っていたのにまんまと引っかかってしまった。むせかけた澄也を追い詰めるように白神様がこれ見よがしに流し目を向けてくる。 「どうしたんだい? 坊が教えてくれたことだろう?」  澄也が何もできないと思っているからこそ白神様はこういうことをするのだ。そう思ったら少し腹が立った。 「そうだよ。て……手を出しても、白神様を犯罪者にはさせないで済む。それなら何かしてもいいっていうのか」 「『何か』じゃ分からないねえ」 「触る、とか」 「いいよ。どこに触れたい?」  白神様は、にいと美しく口角を上げた。鋭い爪先が、見せつけるように形のいい唇をなぞっていく。目が離せなくて、頭が沸騰しそうだった。手のひらの上で転がされていると分かっているのに後に退けなくて、上擦る声で澄也は呟く。 「……唇」 「どうぞ?」  おそるおそる手を伸ばす。親指でなぞった唇は、陶器のようになめらかだった。触ってはいけないものに触ってしまった気がして、さっと澄也は手を引こうとする。けれど手を下ろす寸前で、戯れのように指先に軽く牙をあてられた。固く尖った感触に、ぞくぞくと言いようのない興奮が背筋を這い上がっていく。  くつくつと低い笑い声が聞こえた。 「お前の見た人間は、唇に指で触れていた?」 「……指、じゃない」 「なら、どうやって触れていた?」  目を逸らそうとしたら、首の後ろを手で掴まれた。どこまでも意地の悪い神様に、内心で両手を上げる。観念した澄也は、聞き取れないほど小さな声で答えを返した後で、ぽつりと言った。 「キスしていい?」  白神様は、弾けるような笑い声でそれに答えた。 「笑わないでくれよ!」 「ふ、あっはは! だって、真っ赤な顔でそんなことをいちいち聞いてくるんだもの。最初から素直にそう言えば良かっただろうに」 「俺にとっては『そんなこと』じゃないんだよ」 「分かった分かった。何でもいいよ」  白神様が口角を持ち上げる。嫣然と笑うその表情に、腹が立つのに胸が高鳴った。引き寄せられそうになる体を必死に抑えながら、澄也はぼそりと問いかける。 「俺は白神様とキスしたいけど、白神様もそう思ってくれるのか? 俺のわがままを聞いてくれてるだけなら、やめてほしい」  かすかに目を見開いた後で、白神様はわずかに苦笑を滲ませた。 「私はしたいことしかしない。いちいち言わせるな」 「うん」  澄也を見つめた後で、白神様はそっと瞼を下ろす。伏せられた目に誘われるように、澄也は静かに唇を重ねた。  柔らかくて、あたたかい。ずっとこうしてみたかった。手に触れる髪も肌もなめらかで、ここまで近くに体を寄せることを許されていると思うだけで、ふわふわと幸せな気持ちになる。  一秒がとても長く感じられた。ゆっくりと感触を堪能して、惜しむように澄也は顔を離す。 「……ありがとう、白神様」  はにかみながら、澄也は体を離そうとした。けれどその瞬間、つんのめるほど強い力で腕を引かれる。 「私の知っているキスとは違うねえ」 「へっ?」  言葉は途中で途切れた。澄也の目の前には、にんまりと微笑む金色の目があった。びっくりして顔を仰け反らせようとしたけれど、後頭部に回った手のひらがそれを許してはくれない。何が起こっているのか理解する前に、ごく軽く合わせられた唇が、何度も角度を変えて唇を啄んでいく。  混乱に開いた唇の合間から、ぬるりと何かが入り込んできた。噛んではいけないということだけは分かったから、澄也は反射的に口を開いた。白神様が楽しそうに笑う気配がする。  澄也よりも低い体温の、湿った感触が何なのかなんて、さすがに説明されなくても分かる。かっと頭が熱くなった。 (このひとは――!)  どこまで澄也で遊べば気が済むのかと詰りたい気持ちになった。したいことしかしないというけれど、どうせ面白そうだからという理由だけでこんなことをしているのだろう。そういうひとだ。  爆発しそうな頭とは裏腹に、体は欲に素直だった。湿った感触が澄也の舌を絡みとり、ゆっくりと舐め上げていく。捕まえようとすれば逃げて、逃げようとすると追ってくるその舌を、澄也は無意識のうちに追いかけていた。  気持ちがいい。口の中を舐め合う生々しい感触に、頭がくらくらとした。初めて知る感覚と息苦しさで、息が上がっていく。 「ん、……ふふ……鼻で息をすればいいんだよ」  唇が離れた合間に、あやすように囁かれた。その言葉通りに浅く息をすれば、少しだけ余裕が生まれてくる。  どんな顔をしているのだろうか。一度気になってしまうと確かめずにはいられない。目を開けると、間近でぱちりと目が合った。ゆるりと細められた金色の瞳の中の瞳孔が、いつかのように縦に細く形を変えている。  初めて自分に向けられた色香に、頭がおかしくなりそうなほど興奮した。どちらのものかも分からない吐息が混じり合う。ようやく唇が離れたときには、すっかり息が乱れていた。 「……白神様は意地悪だ」 「気持ちがよかっただろう?」 「俺はこういうつもりじゃなかった」 「大人になったと言ったのはお前だろうに」  ゆるく抱き合いながら息を整えていると、不意に白神様が澄也の耳元に唇を寄せてきた。 「誕生日おめでとう、澄也」  硬直する。耳にした言葉が信じられなくて、頭が真っ白になった。恋い慕う神様に、ずっと名前を呼んで欲しかった。胸に湧き上がった感動は、けれど続く軽薄な言葉で霧散する。 「なんなら続きも教えてやろうか。口吸いよりももっと気持ちがいいよ」  「俺、帰る。また明日!」  蕩けるような甘い声が耳に毒だった。ほとんど突き飛ばすように白神様から離れつつ、澄也は半ば片言で喚いた。澄也の声で目を覚ましたのか、部屋の片隅で不機嫌そうに顔を上げたユキをかっさらうように抱き上げる。和やかに挨拶をする余裕などとっくに失っていた澄也は、そのまま足をもつれさせるような勢いで外へと駆けていった。  慌ただしく去っていった澄也の背中を見送りながら、白鬼は濡れた唇を舐め上げて、うっとりと吐息を零した。 「おいしい。……白いものを汚すというのも、楽しいものだ」  くすくすと上機嫌に笑う声と、それを非難するようなけたたましい烏の声だけが、小さな神社に響いていた。

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