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第44話 一歩進めば戻れない⑤
年配の養護教諭が言うには、澄也が倒れた原因は疲労らしい。倒れるほど疲れていた覚えはない。首を傾げる澄也を諭すように、教師は穏やかに声を掛けた。
「この時期になるとね、倒れてしまう受験生って毎年多いのよ。試験が近いからって知らず知らず頑張りすぎちゃうんでしょうね。どうする? 早退する? 親御さんに連絡しましょうか」
「いえ。少し休ませてもらったら大丈夫です。あまり授業を休みたくないので」
家に連絡してもらっても母が来ることなどあり得ない。かと言ってそれをそのまま告げるには抵抗があった。建前上の理由を押し出せば、優しい顔の養護教諭は「ひと眠りしていきなさいね」と言い残し、ベッドを囲むカーテンを閉めてくれた。
真っ白な小さな空間の中で、澄也はだらりと力を抜く。一応は落ち着ける空間を与えられたとはいえ、仕切りはカーテン一枚だけだ。他にも休んでいる人がいるかもしれないし、声はひそめた方がいいだろう。そう思いながら、澄也はきゅうきゅうと鳴きながら寄り添う使い魔をそっと抱きかかえた。冬毛のもこもことした感触も好きだけれど、夏毛は夏毛で一回り小さく見えてかわいらしい。
『スミヤ、スミヤ。だいじょうぶ? しなないで』
「大丈夫だって。少し調子が悪かっただけだ。大げさだよ」
「実際倒れただろうが」
返事は腹の上の使い魔からではなく、横からやってきた。目を逸らしていたけれど、この場にいるのは澄也とユキだけではないのだ。保健室に連れてきてくれた後も、健はなぜかそのまま残っていた。
よく知った顔ではあるけれど、高校に入ってからはろくに話していないし、雑談するような仲でもない。もの言いたげにする割にはそれ以上口を開こうとしない健をじっと見上げて、澄也は静かに口を開いた。
「今日の授業、合同だったんだな。いつもと違わないか」
澄也はB組で健はC組だ。高校も三年目となるが、クラス合同の授業でもこの組み合わせになったことはない。なんとなく聞いただけだったけれど、しかめ面をしながらも、健は律儀に答えてくれた。
「A組は特進クラスだろ。三年目は、あいつら退魔術の授業はないんだとよ」
「へえ、知らなかった」
「なんで知らねえんだよ……」
「あんまり興味がなくて。知らないことはたくさんあるよ。俺、健が意外と小さいってこともさっき初めて知った」
「お前がタケノコみたいににょきにょき伸びるからだろうが。俺は平均だ! ちびだったくせに生意気なんだよ」
澄也が弱っているからというだけかもしれないが、いじめっ子といじめられっ子だったはずの健と澄也が、こんなどうでもいいことを話しているのもおかしな話だ。そう思うと勝手に口角が上がっていた。
そんな澄也の顔を見て、健は頬を赤くしたかと思えば、決まり悪げに目を泳がせた。
妙に居心地の悪そうなその様子に、ああそういえば、と思い出す。
「健、昨日神社に来てたか?」
「……行ってねえ」
「睨んで悪かった。最近魔物によく絡まれるから、てっきりそうかと思って」
「行ってねえっつってんだろうが! お前があの怖い野郎とキスしてようが何してようが、なんで俺が気にしなきゃいけないんだ!」
来ていたし見ていたらしい。トマトのように真っ赤な顔になるほどのことかとは思ったけれど、幼なじみのキスを見てしまうのが言いようのない気まずさのあるものだということは、澄也自身覚えのあることだ。
「気を遣わせて悪かった。したかったからしたけど、外でするようなことじゃなかった」
「堂々と何言ってんだ」
「見られたものは仕方がない。俺はもう十八だし、合意だ。別に悪いことはしていない」
「歳より先に気にすることがあるだろうが」
あっただろうか。しいて言えばいつまで経っても澄也ばかりが翻弄されているのは不服ではあるが、こればかりは経験の差があるので仕方がない。目下努力の真っ最中だ。
黙り込んでいると、しびれを切らしたように健が頬を引きつらせた。
「あれ、どう見たって人間じゃないだろ」
「あれって言うな。失礼だ。俺たちだって普通の人とは違うんだから、似たようなものだろう」
「お、男どうしだし」
「何か問題があるのか?」
「あーあー! お前はそういうやつだよ、くそが!」
健が神社に来ていた理由を聞こうと思っていたのに話が逸れた。悪態をついて出ていこうとする健を慌てて引き留める。
「なんで昨日神社にいたんだ? 白神様に何か用事でもあったのか」
「あの怖ぇ野郎に用事なんてあってたまるか。二度と会いたくねえよ」
まるで一度は会ったことがあるような言い方も引っかかったけれど、わざわざ神社まで来ていた理由の方が気になった。健が白神様や神社に良からぬ何かをしようとしているなら、止めなくてはならない。
「じゃあなんであそこにいたんだ?」
問えば、健は苦いものでも噛んだような顔をした。言葉に悩むように口ごもり、ややあって、決まり悪さを全面に浮かべて話し出す。
「少し、確かめたいことがあった。お前が神社に通ってるの、知ってたから」
話が見えない。目で続きを促せば、健はほとんどやけになって一息に言う。
「化け物がいるって噂を聞いたんだよ。怖いほど綺麗な、人の心を壊す化け物が。十年くらい前から何人も廃人みたいになっちまったやつらがいて、それは鬼の仕業だって言ってどこかの坊主が探し回ってるって。『怖いほど綺麗な顔をした、若い男を知らないか』って」
「そんな曖昧なもの、当てはまる人なんていくらでもいるだろう」
「かもな。でも、被害者はみんな衰弱して、おかしなことばっかり言ってるらしいぜ。『神様、神様』ってな。どっかの誰かと同じだと思わねえ?」
澄也は無言で奥歯を噛んだ。くだらない噂話と言い切るには、この町は特殊過ぎた。命を落とすほどのことは稀でも、魔物による被害はありふれている。加えて澄也は、夢でも見ているかのような足取りで鳥居をくぐり抜けていく人々を、何度も見かけたことがあった。健が神社と噂話を結びつけた理由を分からないとは言えない。
「お前、とろくさい割に体は強かったはずだ。水掛けたって小突いたってけろっとしてて、倒れるところなんて見たことない。それこそ馬鹿みたいにきれいな男に何かされてるんじゃねえの」
「何もされてない。余計なお世話だ」
揶揄するような言葉に、かっと頭が熱くなった。白神様はたしかに意地悪なところもある。自己中心的なところもある。それでも白神様はいつだって澄也に優しくて、害あるものから守り続けてくれた。
「噂はただの噂だ」
「火のないところに煙は立たぬって言うだろうが。本当のことだったら、よっぽど強い魔物だ。狩れば手柄になる」
「噂がただの噂じゃないなら、それこそ専門のお坊さんなり退魔師なりの仕事だろう。そんな人たち、どこにも来てないじゃないか」
「これから来るかもしれないだろうが」
鼻息荒い健の言葉に、澄也は呆れてため息をつく。
「前から思ってたけど、その向こう見ずに動くところ、直した方がいいんじゃないか。ずっと昔、行くなって言われたところに行こうって言い出したのも健だし、中学の実習のときだってそうだ。それで怪我だってしてるのに、なんでそんなに無謀なことばっかりするのか理解できない」
澄也の言葉を聞いた途端に、健は苦しげに顔をしかめた。怒りからか頬を赤く染めた健は、ばさりと乱暴にカーテンを跳ね上げる。
「……っ、お前には分からねえよ! お前はいつだって『特別』だもんな! バカスミヤ!」
「保健室で怒鳴るな、迷惑だ」
足音荒く健が出て行く。かけた言葉が届くより前に、扉が閉まる音がした。
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