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第45話 一歩進めば戻れない⑥
その日の夕飯は、今年の初採りだというトマトが使われた食事だった。相変わらず畑には色んな野菜が生えている。もう半年もすれば高校も卒業するし、鉢植えのブルーベリーも白神様の畑に植えさせてもらおうか。そんなことを考えながら、澄也はぽつりと口を開いた。
「夏休みになったら、泊まりに来てもいいか?」
ちろりと上目遣いに見上げてねだる。まだ十八、されど十八だ。大人になったら、とはぐらかされてきて叶わなかったことも、許してもらえるようになったのではないか。
けれど期待虚しく、白神様はつれなく首を横に振った。
「だめだよ。家で寝なさい」
「どうして? 俺がどこで何してたって、どうせ母さんは気にしないよ」
「こんな狭い小屋で寝たらまた体調を崩すよ」
「何年前の話をしてるんだよ。ここのところ風邪なんて一度も引いてない。夏だし平気だって。お願いだ、白神様。一日だけでいいから……一晩くらい許してくれたって良いじゃないか。隣で寝たい。また明日って言うのが寂しいんだ。夜も朝も白神様と一緒にいたい」
「熱烈だねえ。そんなに私と共寝がしたい?」
「え? いや、そういう意味じゃなくて!」
からかうように言われ、慌てて否定する。別に下心などなかった。純粋に一日一緒に過ごしてみたかっただけだ。それなのに否定すればするほど、やましいことを考えていたかのように聞こえていたたまれない。
視線を泳がせる澄也を見て何を思ったのか、白神様はふわりと目元を和らげた。くつくつと喉を鳴らす音に紛れて聞こえてきた「いいよ」という言葉に、澄也は目を輝かせる。
「今、いいって言った!」
「言ったねえ。けれど、一晩だけだよ。昼は暑くても朝晩は冷え込むから、坊の体に良くない」
「一日でもいいよ。ありがとう!」
飛び上がりたい気分だった。何度も泊まりたいと言ったけれど、許してもらったのは子どものとき以来これが初めてだ。
「片付けしてくる」
浮き足だった気持ちを落ち着かせようと、澄也は空になった食器を持って立ち上げる。その途端、くらりと視界が歪んだ。
「う、わっ」
「坊!」
がちゃりと音を立てて食器が落ちる。ぐらりと傾いだ澄也の体は、慌てて手を伸ばしてくれた白神様の腕に受けとめられていた。嫌な音がしたとは思ったけれど、落とした食器は割れてしまっていた。
「ごめんなさい。壊した」
「そんなもの、どうでもいいよ。どうしたんだい? 怪我をした? 風邪を引いてしまったの?」
らしくもなく慌てた様子で澄也の体を確認しようとする白神様を、やんわりと澄也は止める。
「元気だよ、大丈夫。なんか最近、めまいが多いんだ。何でもないから、心配しないで」
「めまい?」
起き上がりたいけれど、体に力が入らない。近くで黙り込んでいたユキは、白神様の膝に手を掛けてぼそりと告げ口をした。
『おひるもたおれた。きのうもおとといも、顔がまっしろだった』
「……ユキ」
『だって! スミヤがしんじゃったらユキ、いやだ』
「こんなことくらいで死なないって言っただろう」
口止めしていたのに、うるうると目を潤ませた使い魔は澄也の言いつけを守らずに白神様に『スミヤをなおして』と縋っている。
「……死ぬ?」
「ユキが勝手に言ってるだけだ」
表情を消した白神様を宥めるように、澄也はそっと手を重ねた。白神様にしてもユキにしても、人でないものたちは風邪を引かないし、体調を崩すこともないからなのか、ほんの少し調子を崩すだけで大げさに心配する。子どものときに熱を出したときもそうだったし、今回もそうだ。
だから知らせたくなかったというのに。澄也が恨めしくユキを見ている間にも、白神様は頭の上から足の先まで澄也の体を確認していた。
やがて、白神様は独り言でも言うかのようにぼそりと口を開く。
「ああ、そうか。お前もただのヒトだった」
普段笑顔を浮かべていることが多い顔には、何の表情も浮かんでいなかった。けれど澄也には白神様のその顔が、迷子のように頼りなく見える。
「白神様?」
「楽しくて、成長していくのが面白くて、忘れていた。吸ってばかりいたら、弱るに決まっている。ヒトの体は不便だね」
「どうしたんだよ、いきなり」
ぎゅうと強く澄也を抱きしめたかと思えば、白神様はユキと並ぶようにして澄也を覗き込んできた。
「お前もいつかは壊れてしまうのかな」
「白神様までユキみたいなこと言わないでくれ。そんなにひ弱じゃないよ」
「だって口吸いしかしていないのに、こんなにも弱っている。ヒトというのはこんなに儚いものだったかな」
「たかがめまいで大げさだ」
「大げさなものか。なくなってしまったらつまらないじゃないか。……ああ、そうだ!」
きらりと瞳を輝かせて、さもいいことを思いついたとばかりに白神様が声を上げる。
「坊。坊。……かわいい澄也」
「え」
名前を呼ばれた。それだけで、冷や汗の浮かぶ体に力が漲るような気分だった。白神様の口角が上がっていく。猫のような目だけが、獲物を見定めたかのように爛々と輝いていた。どこか既視感のある表情は、一番初め、守ってやろうかと幼い澄也に話しかけてくれたときと同じものだったのだと、後になって気づいた。
「私と一緒にいたい?」
「うん、ずっと一緒にいたい」
がたがたと音がする。見れば、白い烏が焦ったように窓際で激しく羽ばたきをしていた。くちばしは忙しなく動いているのに、声は一切聞こえない。何かに戒められているかのように、何度窓をつついても、中に入って来られないようだった。
「白神様。烏のおじいさんが何か言ってる」
「いいんだよ。何も考えないで」
意識を周りに向けた瞬間、咎めるように唇を塞がれた。
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