49 / 98

第47話 一歩進めば戻れない⑧

 目を見開いて、澄也は大きく体を仰け反らせる。白神様に触れられている首が痛い。首をきつく締められているかのように、ぐるりと全体が激しく痛んだ。棘の生えた首輪でも嵌められたかのようだった。悲鳴を上げたいのにうめき声しか出せない。身じろぎしようにも、体を抑えられていて動けない。 『スミヤ! やめて、しろいの!』  澄也を助けようとしたのか、ユキが白神様の足に噛みついている。けれど白神様はユキを一瞥するだけで、意に介そうとはしなかった。 「ぐ……っ! う、ぅ……っ」 「飲んで、澄也」  囁くような声とともに、澄也の唇が塞がれた。宥めるようなキスは、血の味がした。鉄臭い味と、それを感じた途端に一層激しくなった痛みにえずきかける。  全身がその血を拒絶していた。  わずかに離れた唇の合間で、白神様はもう一度「飲み込め」と言う。不思議とその声が懇願の響きを帯びているような気がして、吐き気を押し殺しながら、澄也は必死で喉を動かした。言われた通りに血を飲みくだした瞬間、首まわりが円状に輝く。  もはや声を上げることもできなかった。一際強くなった痛みに、汗が絶え間なくこめかみを伝い落ちていく。内側からバラバラにされそうなほどの苦痛で、澄也の視界は白く掠れていた。  宥めるように髪を撫でてくれる手に、必死で意識を集中させる。永遠のように感じられた苦痛は、始まりも突然なら、終わりも突然だった。ひゅうひゅうと響く喘鳴のような己の呼吸を聞きながら、澄也は呆然と宙を見上げる。  視界に真っ白な髪が入り込んできたかと思えば、白神様がじっと澄也をのぞき込んでいた。首筋を愛おしむように撫でられ、また痛みがくるのかと思わず身をすくめる。 「今日は終わり」  それ以上の痛みはこなかった。楽しげな言葉とともに、白神様は澄也を寝かせると、澄也の頭をひょいと自分の膝に乗せた。指一本動かす気力がなかった澄也は、されるがままに髪を梳かれて、汗を拭ってもらう。泣きそうな顔をしたユキがぺろぺろと指を舐めている気配はしたけれど、撫でてやるだけの元気もなかった。   「痛かった?」 「……だいぶ。あれ、何だ? 白神様の血を飲むと、何か変わるのか」 「お前も毛玉に血を飲ませただろう。繋がりを作るには一番手っ取り早い媒介なんだよ」  ユキは澄也の血を飲んで使い魔になった。ならば澄也は白神様の何になったのか。役に立ちたいとは常々願っているけれど、澄也よりも優れた身体能力で澄也を守ってくれるユキとは違い、人間でしかない澄也が白神様の役に立つことは難しい気がする。  そしてそれ以上に、澄也は別のことが気になって仕方なかった。 「俺、ユキにもあんな痛い思いをさせていたのかな。ごめん」 『ユキはいたくなかった。おいしかった。しろいのが悪い!』  ぷりぷりと怒るユキの首根っこを掴み、白神様は見もせずにうしろに放る。 「お前の魂は清らかだから、苦痛が強いのかもしれないね。ゆっくり変えていくとしようか」 「終わりじゃないのか……」 「そう長くはかからない」  またこんなにも痛い思いをしなければならないのかと思うと、正直気が重かった。けれど、と澄也は己の髪を柔らかく撫でているひとを見上げる。 「坊。坊。これでもう大丈夫。何も心配しなくていいよ。ずうっと一緒だ。怖いことは何もない」  上機嫌に微笑みながら、白神様は澄也の頬をぷにぷにと押していた。澄也は何も怖がっていない。怖がっていたとしたら、それはやたらと大げさな反応ばかりするユキと白神様の方だ。  痛いことは嫌いだ。できれば避けたい。それでも、こんなにも嬉しそうな顔を見せられてしまえば、痛みぐらいどうでもいいと思えてしまう。 「……ブルーベリー、今年はちゃんとなると思うんだ。白神様も、一緒に食べてくれる?」  ようやく止まり始めた汗がすうすうと冷えていく。べたつく肌の不快感からは目を逸らしつつ、ぼんやりと澄也は問いかけた。食事をしているところは見ないけれど、白神様もたまに桃をかじっているから、まったく食べられないわけではないはずだ。そう思って見つめれば、頬を上気させたまま、白神様は頷いてくれた。 「お前が初めて育てたものだ。頂こうか」 「うん。泊まるときに持ってくるから、楽しみにしてて」  その日の帰り際、澄也は白い烏に何をあんなに焦っていたのかと尋ねようと思った。しかし、どういうわけか、あんなにも毎日見かけていたはずの白い烏の姿はどこにもなかった。  その日以来、澄也が神社で白い烏を見かけることはなくなった。

ともだちにシェアしよう!