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第48話 一歩進めば戻れない⑨
ぼんやりと水音を聞きながら、冷たい水で顔を洗う。一通り洗い終わるころには、寝ぼけ眼もましになっていた。
鏡をのぞき込みながら、澄也は首筋をついと指でなぞる。首周りには、いばらのような赤い痕があった。刺青というほど目立つものではないけれど、痣では通らない程度には濃い痕だ。
(濃くもならない。薄くもならない。これは何なんだろう)
指先で肌を辿っても何の感触もない。体を変えると白神様は言ったけれど、数日経っても、首元に刻まれたこの痕以外、澄也の体に変化らしい変化はなかった。強いて言えばやたらと体の調子はいいけれど、単に昨日早く寝たからだと言われればまあそうかと思う程度のものだ。
主人の真似をして鏡をのぞく狐を撫でて、澄也はぱしりと自らの頬を叩く。
「頑張ろうな、ユキ」
小さな相棒はふるりと尻尾を振った。
今日は指折り数えて待った卒業試験の日だ。制服のボタンを一番上まできっちりと閉じれば、見慣れぬ赤い痕はすっかり隠れて見えなくなった。
二人一組で行われる卒業試験のバディは、当日直前まで知らされないのが慣例だ。校舎を離れた指定の場所で、澄也は割り当てられたバディと無言で向き合っていた。
「よりにもよってお前かよ、スミヤ」
「ペアはランダムだって聞いた。俺が決めたわけじゃない」
「あ? 何も言ってねえだろうが」
しかめ面をして唸っていたバディは、健だった。制服姿の澄也とは違って、ジャージに真っ赤なTシャツを合わせた動きやすそうな格好をしている。
「俺、学費が安い退魔系の学校に行きたいから、できたら良い成績を残したいんだ。実習のときみたいに規則を破ることはしないでほしい」
「いつの話だよ。いちいち根に持ってうぜえなあ」
健が舌打ちをすると同時に、しゅるりと蛇が這うような不気味な音が聞こえてきた。
『食べる。食べる。いただきます』
おどろおどろしい声が響く。その声を聞いた瞬間、言葉を交わすまでもなくユキが肩から駆け降りていった。ユキが飛び掛かるのに合わせて、澄也は支給された符を振り向きざまに投げつける。澄也の背後で鎌首をもたげていた大蛇は、大口を開けた体勢のまま固まった。
「は?」
符が魔物の肉を焼く音がする。蛇を見てぱかりと口を開けた健が、間の抜けた声を上げていた。
「お前、この間も見た。懲りないな」
固まっている蛇の化け物を澄也が手で小突くと、大きく見えた蛇はあっという間に風船のようにしぼんでいった。嬉々として蛇の魔物にかじりついたユキは、牙を剥きながらきらきらと目を輝かせている。
『スミヤ、たべていい? 二回見たらたべていいって言った』
「いいけど、食べるなら影で残さず綺麗に食べてくれ。見た人が驚いてしまうから」
『わかった』
うきうきと頷いたユキは、小さな口をいっぱいに開けて蛇に喰いつくと、そのまま澄也の影へと魔物を引きずり込んだ。
毎日エサもあげているし、時々血だってあげている。だというのにどうしてこのかわいい狐はこんなにも悪食なのだろう。本人曰く食べれば食べただけ強くなるらしいけれど、ただ大食いなだけなのではないかと澄也は思う。白神様に頼んでご飯を増やしてもらうべきかと悩むところだ。
ため息をつきながら健を見れば、信じられないものでも見たかのように健は澄也を凝視していた。
「お前、いつからそんなに動けるようになったんだ……? あんなにとろくさかったくせに」
「毎日毎日何かに出くわしてたら嫌でも慣れる」
魔物に絡まれるのは澄也にとっては日課のようなものだ。側溝へと足を引きずり込もうとするタコの魔物や、標識を澄也に向けて切り落としていくイタチの魔物ならまだかわいい方で、時には猪ほどの大きさの魔物が近寄ってくることさえある。手に負えない魔物は白神様が何とかしてくれるし、ユキと協力すれば身を守ること自体は難しくないとはいえ、年々魔物に襲われる頻度が増えていることだけは、気がかりだった。
そんなことをかいつまんで話せば、健は空笑いを浮かべる。
「疫病神かよ。お前とペアなの、怖くなってきたわ」
「頑張ろうな、健。今日はよろしく」
「よろしくしたくねえ……」
顔を引きつらせる健と連れ立って、ここに来る前に与えられた課題の紙を覗き込む。仲が良いとは言えない相手だけにコミュニケーションが取れなかったらどうしようかと思ったけれど、健も試験には真面目に取り組む気らしい。澄也は内心でほっと胸を撫でおろした。
「課題は何だよ。場所は?」
「書いてない。場所は隣町の療養施設だって」
「療養施設なんてあったか? 介護施設なら腐るほどあるけどよ」
「俺も知らない。隣町に行くことなんてそうそうないから……。とりあえず行ってみよう」
卒業試験は退魔術の実践訓練と、退魔師の職業体験を兼ねている。近隣住民が訴えを出した魔物がらみの困りごとの中から、学生でも解決できる難易度のものが選り分けられて回されるという。緊急性の高いものは含まれていないのだろうが、内容すら現地に着くまで伏せられているというのはどうなのか。澄也と健はなんとも言えない気分になって顔を見合わせた。
歩いていくには距離があるので、移動は滅多に乗らない電車を使うことになった。試験官がどこから見ているか分からないとはいえ、あえて仲のいいふりをする理由もない。ひたすらに無言の車内は、控えめに言ってもだいぶ気詰まりだった。
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