52 / 98

第50話 一歩進めば戻れない⑪

 声を掛けてきたのは、真っ白な病院着を纏った女性だった。ここで療養している患者だろうか。土気色の顔は今にも倒れてしまいそうなほど儚げで、足取りはふらふらとして頼りない。じっと澄也を見据えて離れない視線だけが、異様なほどに熱を帯びていた。 「かみさま、かみさま……ああ……ずっと、お礼を言いたかった」  震える手が澄也の袖口を控えめに掴む。それはまるで、迷子になった幼子が唯一の知り合いに縋るかのような、憐れみを誘う仕草だった。けれど、掴まれた側の澄也には心当たりがない。目の前の女性に見覚えもなかった。 「すみません、人違いではないでしょうか」 「わたしね、もうすぐあの世にいけるの。かみさまのおかげ。もう苦しくない」  澄也の声など聞こえていないかのように、彼女は自由に喋った。肩口でゆるくひとつに結んだ髪を揺らして、彼女はくすくすと笑う。 「わたしをきれいだと言ってくれたのは、かみさまだけ。うれしかった。さいごにもう一度、だきしめてください」  落ち窪んだ瞳を向けて、女性は澄也に懇願する。その様子がひどく痛ましく見えて、願いを聞いてあげたくなったけれど、どう答えればいいのかは分からなかった。結局澄也は、袖に縋る女性の手を両手でそっと取った。 「お願いを聞いてあげられなくてごめんなさい。俺は今水浸しだから、あなたまで濡れてしまいます。どうか良くなりますように」  握られた手を見つめて、女性は不思議そうにまばたきをした。ちょうどその時、ばたばたと音を立てて管理人が食堂へと駆け込んでくる。立ち尽くす女性を見つけて「ああよかった、ここにいたのかい」と声を掛けた管理人は、後に続いてやってきた職員に彼女を任せると、慌てて澄也たちにタオルを手渡した。 「ごめんなさいね。普段だったらあの人は寝ている時間なんだけど、窓からあなたたちのことを見ていたみたいで、急に部屋を出て行ってしまって」 「患者さんですか?」 「ええ。持病があって、穏やかに過ごしたいってことでここに来ていたんだけど、ご家族は一度も見舞いに来ないし、いつからかすっかり心を病んでしまったようでねえ。……気の毒に」  眉尻を下げる管理人をちらりと見て、健は何かを考え込むように静かに口を開いた。 「あの人、元からああだったわけじゃないんですか」 「いいえ。来たばかりのころははきはきとした印象の方でしたよ。でも長い病気だったというから、きっと無理をしていたんでしょうねえ。思い詰めていたと思ったら、一度だけ誰にも何も言わずに外に行ってしまったことがあって、帰ってきたときには今のような状態で……魂が抜けてしまったようになってしまったの」 「外って、どこに行っていたんですか?」 「分かりませんよ。施設の前でぼんやり立ち尽くしているところを見つけるまで、情けないことに彼女が抜け出していたことさえ誰も気付いていなかったんです。こんなことならもっと話を聞いてあげていたらよかったと思ったものですよ。……こんなことを後から言っても仕方がないですけれどね」  話しすぎたとでも言うように口元を隠した管理人は、「着替えておいで」と澄也たちを個室へと案内してくれた。もぞもぞと濡れた服を脱ぎながら、健が小さな声で呟く。 「……噂と同じだ」 「あの人が誰かに会ってああなったと決まったわけじゃない」 「『誰か』には会ってる。だってあの人、お前のことを神様って呼んでただろうが」 「だから? ただの人違いだろう」  着替えた服の首元を確かめながら澄也は顔をしかめる。首の奇妙なあざがこれでは隠せない。湿ったタオルを首に巻きつけるほかないだろう。  やけに静かだと思えば、健は口を閉ざして澄也を眺めていた。見られたかと一瞬ひやりとするが、じっと物を言いたげにこちらを見る健に、気付いた様子はない。澄也の額から足先まで、何かを観察するように視線を巡らせた健は、意固地になった子どものようにぎゅっと唇を引き結ぶ。 「本気で分かってねえの?」 「何をだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。俺には心は読めない」 「……お前、あの怖い野郎とそっくりなんだよ」  健が怖いと評する相手は、白神様のことだろう。澄也はたしかに白神様が好きだし、子どものころからずっと近しく過ごしてきた。けれど、あの気まぐれなひとと己が似ているかと言われると、全力で首を横に振りたくなる。 「似ているところなんてどこもない。年だって髪だって目の色だって全然違う」 「見た目の話じゃねえ。雰囲気っていうか……気配が似てるっつってるんだ。魔物と話してるときのお前は気味が悪い。ガキのころから不気味だったけど、近ごろは余計にそうだ。何考えてるか全然分かんねえし、澄ました顔して周りのことなんざ何も見やしねえ。自分の中のルールで生きてる」  そのくせ頭も顔もいいから腹が立つ、と苦々しく健はぼやいた。 「だから健は俺につっかかるようになったのか?」 「きっかけなんざいちいち覚えてるかよ。とにかく、それだけだ。……先に行く。こんなくだらない課題、とっとと終わらせたいからな」  そう言うと、健はそっけなく外へと出て行ってしまった。タオルで隠した首のあざを、澄也は無意識のうちにそっと撫でる。周りを見ていないと、ひまりにも言われた覚えがあった。複数人に何度も言われれば、さすがにそれが己の悪癖なのだろうということくらいは理解できる。  ため息をつきながら、澄也もまた短い休憩を終えた。

ともだちにシェアしよう!