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第51話 一歩進めば戻れない⑫

 気付けば時刻は夕方となり、あたりはすっかりと橙色に染まっていた。ハプニングこそあったものの、やるべきことは終わらせた。施設の人たちからも労りの言葉をもらえたので首尾は上々といったところだろう。手を振って見送ってくれる施設長に会釈して、澄也たちは療養施設を後にする。  前を行くユキの真っ白なしっぽを眺めながら、駅を目指してのんびり歩く。長く伸びた影を追いかける無邪気な使い魔の様子に和んでいたそのとき、振り返りもせずに健が口を開いた。 「ついてくんな」 「帰り道が同じなだけだ」 「俺の後ろに立つんじゃねえ」 「並べば並んだで文句を言うだろう」  刺々しい言葉を交わしている最中、たまたま小石が足に当たった。思いのほか勢いよく転がった石は、前を歩く健の靴に向かって飛んでいく。煩わしそうに石を道脇へと蹴り飛ばした健は、堪えかねたように澄也を振り返った。 「くだらねえことしてんな」  わざとやったわけではない。けれど、その顔があまりにもしかめられていたものだから、思わず澄也は吹き出しかけた。途端にぎろりと視線が飛んでくる。 「ああ? 何がおかしい」 「いや。子どものときは延々石蹴りをしていたのに、健も大人になったんだなって」 「馬鹿にしてんのか」 「してない。懐かしいと思っただけだ」 「ふん」  会話はそこで途切れたけれど、不思議と行きほど居心地が悪いとは感じなかった。前を歩く健の歩調がどんどんと緩やかになっていく。やがて健は意を決したように足を止めた。 「……澄也」  いつもの馬鹿にしたようなイントネーションではない、昔のような呼び方だった。何事かと言葉を待つが、健は思い詰めたような顔をしたまま口を開こうとはしなかった。人通りの少ない路地に、時折車が通り抜けていく音だけがひたすらに響く。 「お前……お前はさ、なんであの怖いやつと――」  耳を澄ませてようやく聞こえる程度の小さな声で、健は澄也に何かを尋ねようとしたようだった。けれど、最後まで言い切るより前に、健は唐突に目を見開き、声を荒げる。 「っ、よけろ!」 「え?」  振り向く間もなかった。タイヤが急ブレーキで擦れるけたたましい音が耳に届く。後ろから巨大な影が迫り、ぶわりと押し寄せる風圧を感じた。慌てたようにユキが澄也を庇おうとしてくれるけれど、小さな狐には何もできない。 大型のトラックが澄也目掛けて突っ込んできたのだと理解したのは、すべてが終わった後だった。  轟音が響き、土煙があたりを満たす。けれど、しばらく経っても体に衝撃は感じなかった。閉じていた目をおそるおそる開いて、見えた光景に澄也はぽかんと口を開けた。それくらい現実味がない光景だった。  澄也たちの目の前には、二本の腕をトラックに向かって突っ張る熊のような大男が立っていた。両足はコンクリートを割って地面にめり込んでおり、男とトラックが接触している場所からは、白煙が上がっていた。 「……ふーっ」  大男は深く息をついた。信じがたいことに、彼は突っ込んでくるトラックを生身で止めたらしい。男が止めたトラックのタイヤは、軽く地面から浮いているようにすら見えた。 「……え?」 「はあ?」  嘘のような光景に、澄也と健は揃って間の抜けた声を漏らす。男が手を離すと、トラックは音を立てて地面に落ちた。その衝撃を受けて、トラックの青い塗装がぽろぽろと剥がれ落ちていく。男には怪我ひとつないが、トラックにはふたつのきれいな手形のへこみがついていた。 「おお、びっくりした」  地面から響くような低い声だった。恐ろしい声だけれど、不思議と耳馴染みが良い。肩をごきりとならしながら振り返った男は、この辺りでは見たこともないような目立つ外見をしていた。  刈り上げられた硬そうな髪は派手な青色で、四角い顔を飾るサングラスは見るからに厳めしい。散らかった無精髭に、くわえ煙草があつらえたように似合っている。上腕に覗く入れ墨らしき青い花模様が、だめ押しのように雰囲気に凄みを添えていた。 「無事か。ガキども」  一度会ったらまず忘れられないだろう迫力のある男だ。間違いなく会ったことはない。けれどなぜか、澄也はその男に既視感を覚えた。正確には、見る者をすくませるようなその気配に、覚えがあった。

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