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第52話 一歩進めば戻れない⑬

「おい。おーい、怪我はねえかって聞いてるんだ」 「あ、ないです。助けてくれてありがとうございます」 「おう、気にすんな。災難だったな」  気遣いの言葉に、澄也は反射的に頭を下げる。威圧感こそあるものの、澄也はその男を恐ろしいとは思わなかった。サングラスの向こう側の目をじっと見返せば、男の目が優しいことはすぐに分かるからだ。  けれど、それはあくまで冷静に見ればの話らしい。背後からぐいと腕を掴まれ、澄也は軽くのけぞった。振り向けば、健は紙のように真っ白な顔色をしていた。 「何普通に礼言ってんだ馬鹿! 明らかにおかしいだろうが。素手でトラック止めたんだぞ、このオッサン! 無傷で! つーかなんでトラック突っ込んで来るんだよ! 居眠り運転でもしてたんじゃねえだろうなくそ!」  混乱した脳内をそのままさらけ出したかのような健の言葉に、澄也はきゅっと眉を寄せる。健の声は大きい。残念ながら、本人基準でひそめているのだろう声は全くひそまっていなかった。 「おかしいおっさんで悪かったな。俺は生まれつき、力が強いんだよ」 「力が強いで済むレベルかよ……」  片眉を上げた男が煙草に手をかける。棒の先についていたものを見て、澄也と健は再度揃って目を丸くした。煙草だと思っていたそれは、棒付きの飴だったらしい。かわいらしいそれはあまりにも男の雰囲気とは不似合いで、勝手に脳が煙草だと補完していたようだ。 「つーか、俺らはいいけど向こうは? 運転手。白目向いてたように見えたけど、生きてるのかよ?」 「降りてこないな」  怪我でもしたのではないかと慌てて運転席を見れば、法衣をまとったお坊さんが、意識のない運転手を介抱しているところだった。青髪の男が親しげに手を上げているところを見ると、知り合いらしい。 「あっちも無事だとよ」 「よかった。救急車とか――」 「気にすんな。連れが呼ぶ。それよりも」  軽く背を曲げた男が、まじまじと澄也を見つめてくる。平均よりも背の高いはずの澄也よりさらに長身の男は、傍から見ると電柱のようだ。何もかもを見通すような遠慮のない視線に、さすがに居心地が悪くなった。 「俺の顔に何かついていますか」 「ううむ……」  一歩下がった澄也の顔をじっと見ながら、青髪の男は何かを考えるように顎に生えた髭を撫でた。   「いや、ずいぶん珍しいものを見たと思ってな。ガキ、名前は?」 「え? 白峰澄也です」 「不審者に何名乗ってんだバカスミヤ!」  隣で焦ったように健が小突いてくるが、澄也は気にしなかった。こちらを検分するような青髪の男の視線から、目を逸らしてはいけないと思ったのだ。   「澄也。澄也か……。お前みたいな人間はたまにいるけど、大抵は年が一桁のうちに死ぬもんだ。よくもここまで無事に生きて来られたもんだな」  聞き覚えのある言葉だった。白神様も、初めて会ったときにも似たようなことを言っていた。男の目を真っ向から見返しながら、澄也は警戒するようにぐっと拳を握り込む。 (やっぱりこのひと、人間じゃない)    肌のひりつくような気配で疑っていたけれど、おそらくは白神様と同じ類の人外だ。   「俺みたいな人間って、どういうことですか?」  声を低めて、澄也は慎重に問いかける。今日の天気は何ですかとでも聞かれたかのように、青髪の男は不思議そうに答えた。   「色んなものを引き寄せて、まわりを狂わせるやつ。ヒトじゃねえやつらにとっては垂涎もののはずだけどな。だからこそこの年まで生きている理由が分からねえ。……におうな」 「意味がよく分かりません」 「嘘は苦手か? 心当たりがありそうだな。今日一日だけでも、何度も魔物に絡まれてたらしいじゃねえの」  なぜ澄也たちが魔物のいたずらに巻き込まれたことを知っているのか。澄也と健がそろって身を強張らせると、焦ったように青髪の男は両手を上げた。 「俺が見てたわけじゃねえ。誤解するなよ。連れが試験官を頼まれたとかで、話を聞いただけだからな! ……ああ、これ言わない方が良かったんだったか?」  一瞬だけ顔をしかめた大男は、けれど次の瞬間けろりと「まあいいか」と首を振った。 「つまりだな、話を聞いてるときはずいぶん運の悪い小僧たちもいるもんだと思ってたが、見たら分かった。お前たちが水浸しになったのも、こうして死にかけたのも、運の問題じゃない。澄也、お前のせいだ」 「……っ」    世間話のような口調でとんでもないことを言う男の目には、悪意も攻撃しようという意思も感じられなかった。ただ善意で事実を教えていると言わんばかりに、淡々と男は続ける。   「お前のせいって言っても、お前自身が何か悪いことをしたわけじゃねえがな。何も知らねえガキならまだしも、お前の魂はその年にしては不自然なくらい白い。誰かがわざとそうしたんじゃねえかってくらい、目を引かれる。悪意と不幸を呼び寄せるだろう」    思い当たる節がないとは言えなかった。澄也の人生は自分と周囲の不幸の連続だ。  澄也の父は澄也が赤ん坊のときに家を出て行った。魔物と会話する異端児を抱えた母はいつからか澄也を見なくなった。幼いころ、ともに魔物に狙われた幼なじみたちは消えない傷を体に負った。澄也をいじめた高松たちは、魔物に憑かれた日を境に人が変わったように静かになったし、一日ともに行動しただけで健は何度も魔物のいたずらに巻き込まれた。 「今だって俺がいなけりゃ大惨事だ。年々ひどくなってるだろう。違うか?」 「それは……」    違うともそうだとも答えることができなかった。胃の底が冷たくなっていく。  害を被るのが自分だけならばいい。けれど、周囲を巻き込むような不運を引き寄せているのはお前だと言われて平気でいられるわけがない。  言葉を失った澄也に代わって、健がふんと鼻を鳴らした。 「うさんくせえことばっかり言いやがって。助けてくれたことには感謝するけど、おかしなツボでも買わせようって言うなら無駄だぜ。こいつ金持ってねえし」 「ツボ? おい誰が子ども相手に悪徳商法なんざするか、生意気なガキめ」 「なんだよ。喧嘩なら買うぞ、オッサン!」 「ああ? 俺は優しいから子ども相手に手はあげないけど、お前あんまり舐めたこと言ってるとそのうち本当に痛い目にあうぞ、小僧」 「優しそうにはとても見えねえんだよ!」     黙っているうちにみるみる空気が険悪になっていく。けれど、澄也の頭の中には先ほど男に言われたことがぐるぐると渦巻いていて、睨み合うふたりを仲裁するほどの余裕もなければ、健を連れてその場を立ち去るという考えも浮かばなかった。  張り詰めた空気に穴を開けてくれたのは、穏やかなお坊さんの声だった。 「やめなさい。かつあげをしているようにしか見えないぞ、青嵐(せいらん)」 「何もしてねえよ。話を聞いてただけだ」 「そんな風にどやしつける必要はないだろうに。お前の顔は怖いんだから、もっと優しく話せないのかい」 「十分優しくしてるだろうが。お前は俺を何だと思っているんだ」 「優しい粗忽者だと思っているよ」 「おい」    背の低い、ほっそりとした人だった。先程まで運転手を介抱していた壮年の坊主が隣に立つと、青嵐と呼ばれた大男の空気が少しだけ和らぐ。狐目をした坊主は、身構える澄也と健を見て、丁寧に頭を下げた。

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