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第53話 一歩進めば戻れない⑭

「連れが怖がらせてすまなかったね。大丈夫だったかい」 「いえ……。あちらの方は大丈夫ですか?」  意識を失っている様子の運転手を見ながら問いかけると、狐目の坊主は静かに頷いた。「怪我はない。脈も呼吸もある。救急車を呼んだからすぐに来ると思う」という言葉に、ほっと澄也は息をつく。  澄也が気を抜いた瞬間を見計らったかのように、しわがれた烏の鳴き声が聞こえた気がした。空を仰ぐ間もなく、白く大きな影が澄也のすぐ隣を通り過ぎていく。 「うわっ」    次から次へと何かが起こる。今日は本気で厄日かもしれない。澄也が首に巻いていたタオルをきれいに取り去り、白い烏は空の彼方へと飛んでいった。 『おじじ?』 「なんでこんなところに?」  肩に飛び乗ってきたユキと顔を見合わせ首を傾げる。少し前まで神社に住み着いていたけれど、最近はめっきり姿を見なくなった白い烏を、随分と久しぶりに見た気がした。 「三本足の八咫烏(やたがらす)。これまた珍しいものがいたもんだ」  青嵐が楽しげに呟く。けれど笑みを浮かべているのは青嵐ひとりだけで、狐目の坊主と健は厳しい顔をして澄也の首元を見つめていた。 「スミヤ。お前それなんだよ。首の」 「首?」  指摘されて初めて、隠していたはずの首元の痣がさらけ出されていることに気が付いた。慌てて手のひらで首を覆うが今さら遅い。澄也を囲む三人は、ばっちりと首元の首輪のような痣を見てしまったらしい。もしかするとあの白い烏は、これが目的でタオルを剥がしていったのかもしれない。 (あの烏はいたずらなんてしないと思っていたのに)  裏切られたような気分で視線を泳がせていると、軽い口調で青嵐が「当たりだ、当たり」と呟いた。その視線はまっすぐに澄也の首を見つめている。   「鬼がいるぞ、|水《・》|無《・》|川《・》」  その名を聞いた途端、澄也の心臓はどくりと跳ねた。歯をむき出しにした迫力のある笑顔を浮かべながら、青嵐は上機嫌に続ける。   「通りで嫌な野郎のにおいがするはずだ。助ける必要なんてなかったな。こいつはエサだ。それとも信望者か? そりゃあ、何もなしにこんな天然記念物みたいな人間が生きていられるはずがないよなあ」 「言葉を慎みなさい、青嵐。まだそうと決まったわけじゃない」  視線の圧に押されるように、澄也は一歩後ずさる。厳しい目で澄也を見つめたまま、水無川和尚は静かに口を開いた。   「君の周りに、人ならざるものがいるね」  心の中まで見透かすようなまっすぐな視線に、澄也はぎくりと心臓を跳ねさせた。見られてはいけないものを見られた。この場にとどまっていてはいけないと本能が警鐘を鳴らしているのに、視線に射すくめられたかのように体が動かない。冷や汗が首筋を伝っていく。  そんな澄也の緊張を感じ取ったのか、小さな舌で汗を舐め取りながら、ユキが気遣わしげに鳴いた。 『スミヤ、こわいの? ユキ、あいつたべてあげようか』  しろいのは固くてかじれなかったけど、あいつらはいける気がする。物騒なことを呟く相棒を、慌てて澄也は腕の中に隠す。  ユキがしろいの、と呼ぶのは白神様のことだ。ユキはまさか白神様を襲ったことがあるのだろうか。なんということをしているのだ。そんなことを気にしている場合でもないのに頭が痛くなる。主想いなことはありがたいが、悪食の使い魔は近ごろ本当に澄也の手には負えなくなってきた。   「黙ってて、ユキ」  声は潜めたつもりだったけれど、聞こえてしまったらしい。ますます楽しそうに唇の端を上げた青嵐は、じっと澄也に視線を据えた。 「へえ。お前、魔物の声が聞こえるのか。珍しい。それは元からか? それともエサにされた副産物か?」 「生まれつきです。何かおかしいですか」    逃げ道を塞がれた気分になって、澄也は彼らを睨みつけた。ぴくりと眉を跳ね上げた青嵐が前に出ようとするが、彼が足を踏み出すより前に水無川和尚が腕でそれを制した。   「そう警戒しないで欲しい。少し気になることがあるだけなんだ」 「気になること?」 「私たちは、十年以上前から一体の魔物を探している。人間によく似ていて、人当たりが良く見えるかもしれないけれど、人の心なんて持たない残虐な鬼だ。美しく心奪われるような見た目をしていて、弱っているものに付け込むのが上手い。心当たりはないかな」 「……」    澄也は口を引き結んだまま、何も言わなかった。脳裏をよぎったのは、健が話していた噂話だ。  ――化け物を探している坊主がいる。怖いほど美しい、人の心を壊す化け物を。  同じことを考えたのか、ちらりと健が澄也に視線を向けてくる。もの言いたげな視線が、今は腹立たしくて仕方がなかった。どうか余計なことだけは言わないでくれとただ祈る。  沈黙に割り込むように救急車の音が聞こえてくる。黙りこくった澄也を静かに見つめて、水無川和尚は気遣わしげに口を開いた。   「不躾なことを聞いてしまったかな。心当たりがないならいいんだ。どうか|体《・》|に《・》|気《・》|を《・》|付《・》|け《・》|て《・》。また近いうち、会うこともあるだろう」    狐のような細い目が、わずかに開いていた。優しい声なのに鳥肌が止まらないのは、澄也の中に残る幼いころの記憶のせいだ。澄也は水無川和尚に会ったことなどない。けれどおそらく、澄也は彼を知っている。  腹から血を流していた白神様は、全身を符に戒められ、自由な動きさえままならないほど傷つけられていた。それを為した者の名を、澄也の神様は『水無川』と呼んではいなかったか。    サイレンを鳴らす救急車が近くに来ると、水無川和尚は一礼して救急隊員を迎えに行った。ユキを抱きしめながらその背を睨みつけていると、ぬっと急に影が差す。顔を上げると、怖いほど真剣な顔で、青嵐が澄也を見つめていた。指で己の喉を示しながら、青嵐は顎を上げる。 「お前のそれは『鬼』の首輪。気に入ったエサを長く楽しむためだけに付ける獲物の印だ。澄也。お前が健気に庇おうとしているやつは、お前を騙して遊んでいるだけだぞ」 「だとしたら、なんだと言うんですか」    目に力を込めて、青嵐を睨みつける。白神様はいつだって澄也に優しかった。いつだって澄也のそばにいてくれた。血を好むことも、人でないことも初めから知っている。エサにしてもらえるというならば本望だ。 「ただの善意の忠告だよ。鬼ってやつは自分勝手で執着が深い生き物なんだ。他人のことなんざ気にしやしないし、捕まったが最後、血肉どころか魂まで啜られるぞ。痛い目に遭う前に逃げた方がいい」 「……痛い目になんて遭いません。どうしてあなたにそんなことが分かるんですか」 「そりゃあ、俺も鬼だからな」  くい、と見せつけるように青嵐はサングラスを下げて見せる。瞳が見えた瞬間、澄也は息を呑んだ。そこには人間ではあり得ない、美しい金色の瞳が隠されていた。同じ色の目をしたひとを、澄也はひとり知っている。  青嵐はそれ以上のことは言わなかった。代わりに、澄也と健に押し付けるように、一枚ずつ小さな紙を置いていく。  隣町の名前と、寺の名前。そして簡易的な地図が書かれたシンプルな名刺だ。     「詳しいことが知りたければここに来い。もう片足踏み外してるっぽいし、そこまで魅入られてたら手遅れかもしれないが、一応な。……なんで試験官なんて面倒な依頼を引き受けちまうのかと思ったもんだが、水無川は正解だった。探すなら広く探すに限るな。ようやく見つけた」   後半はほとんど独り言のようなものだった。気をつけて帰れよ、と場違いなほどにこやかに言い残して、青嵐はあっさりと立ち去っていった。  不幸を呼ぶ存在。鬼の首輪。騙して遊ぶ。たった今言われた言葉が、ぐるぐると澄也の脳裏を巡っていた。呆然と立っていると、不意に肩に痛いくらいの衝撃を感じる。不機嫌そうに顔を歪めた健が、澄也の肩を叩いたらしい。 「何呆けてんだよ。警察にはあの坊さんたちが説明してくれるだろうし、行こうぜ。汗かいたし、俺はとっとと帰りたいんだよ」 「ああ、うん。そうだな」 「……それ、行くのか?」 「行かない」  ぐしゃりと名刺を握りつぶしながら、澄也は縋るように首元のあざに触れていた。  白神様は澄也の神様だ。会ったばかりの他人に好き勝手言われて楽しい気分がするはずもない。後になって湧き上がってきた怒りをぶつけるように、いつもよりも荒い足取りで澄也は歩く。置き去りにされた健は、難しい顔をしながらその背を見送った後、渡された名刺をじっと眺めていた。

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