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第57話 朝まで一緒にいたかった④
耳の後ろから首までを妖しげな手つきで撫でられる。頭が沸騰しそうだと思った瞬間、本当に鼻の奥が痛くなってきた。ぽたりと何かが伝い落ちる感触に、あわてて鼻の下を手で拭う。
赤黒い血が指についた。
「うわっ」
「は?」
「布、布……! 白神様の着物が汚れる!」
慌てて体を放そうとするが、離れられない。いつの間にかがっちりと背中に手が回されていて、動けないのだ。焦る澄也をよそに、過呼吸でも起こしたかのような引きつった呼吸とともに、弾けるような笑い声が部屋を満たした。
「ふ、あっは! ははははは! 澄也、坊……そんなことあるか? 初めて見た。お前、たかが足を見たくらいで鼻血を出すなんて!」
「だって!」
言い返した途端に流れ落ちてくる鼻血を、焦りながら手で抑える。離れたいのに、白神様は嫌がらせのように澄也に抱きついてくる。
「放してくれ!」
「放さない。く、くく……ふ、あはは! ああ安心した。いつもの坊だ」
「安心ってなんだよ!」
「不意打ちとはいえ、お前に驚かされるのは面白くないからねえ」
そう囁いた白神様は、あろうことか澄也が必死で鼻血を抑えている手を掴んだ。どれだけ澄也が抵抗しようが白神様の馬鹿力に敵うわけもない。やすやすと手はどかされた。
「どいてって! 汚れるから!」
血で濡れた顔を正面から晒すはめになった澄也は、羞恥と焦りで半泣きになりながら白神様を睨みつける。けれど、楽しくてたまらないといった様子の白神様が澄也の言うことを聞いてくれるわけもなかった。
「汚れないよ。ああこんなにたくさん、もったいない」
「うわ……っ」
ぬるりと生暖かい感触が鼻の下の血を舐め取っていく。ぞわりと鳥肌を立てる澄也とは対照的に、白神様は恍惚と目を細めながら澄也の血を舐めとっていた。無駄と知りつつ暴れていた澄也が思わず力を抜いてしまうほど、その表情は艶やかだった。
半ば途方に暮れながら、ため息まじりに澄也は問いかける。
「俺の血、そんなにおいしいの?」
「ん? ふふ……、おいしいよ」
「……鼻血なんて飲まないで欲しいのに」
「血は血だろうに。どこから出たって一緒だよ」
舐め取られているうちに、やがて鼻血は止まったらしい。ぺろりと名残惜しそうに鼻の下から唇までを舐められて、澄也はどっと疲れた気分になった。
こんなつもりじゃなかったのに、いいだけからかわれた。
「放して、白神様。もう暴れないから」
「はいはい」
笑い交じりに答える白神様は、澄也で遊んですっかり満足したらしい。にやにやと笑う白神様を見ながら、澄也は解放された手を、後ろで遊んでいた使い魔に向けてこっそりと伸ばした。駆け寄ってきたユキは、澄也の隣に座って従順に指示を待つ。
『たべる?』
「うん。術を浮かせられないか試してみるから、剥がしてみてくれるか」
『わかった』
短い会話の後で、ユキは軽やかに白神様の足元に向かう。予想外に振り回されてしまったけれど、澄也が白神様の足首を確かめたかったのは、試したいことがあったからだ。
卒業試験の日、食いしん坊の使い魔はかまいたちの作り出した風を散らしながら食べていた。ユキが意図してやっていたわけではないらしいが、形あるもの以外も食べられないことはないらしい。それを知ってから、澄也とユキはふたりで色々なことを試していた。
懐からカッターを取り出し、澄也はためらいなく自分の指を傷つけた。白神様が訝しげに眉を寄せたけれど、構わず澄也は白神様の足首に手を伸ばす。
血には強く力がこもる。授業でも習ったことだし、白神様からも教えてもらったことだ。同じ術にしたって、墨で書くより効果が高い。
小細工をしたところで、何年も効力を発揮している術のつくりは精巧で、今の澄也ひとりでは解くことも壊すこともできやしない。けれどほんの一瞬、ほころびを作ることくらいはできるはずだ。
白神様の足首を這う文字を上書きするように、澄也は自らの血を塗り付けていく。足首をちょうど一周するように文字を上塗りしたそのとき、一秒にも満たぬ間、文字が光った。その一瞬を逃さず、ユキがかぱりと大きく口を開ける。
通常ならば何も起こらないはずの一瞬の変化でも、ユキと力を合わせれば意味あるものになる。
すう、と大きく息を吸い込む音がした。
ユキの苦しそうな呼吸とともに、白神様の足首から文字がじわじわと浮きあがっていく。白神様は面白がるように片眉をぴくりと上げたけれど、澄也たちを止めようとはしなかった。
やがて、すべての文字を吸い込んだユキがけほけほと咳き込んで、泣きつくように澄也の膝に手をかける。
『おなか、ちくちくする』
「無理をさせてごめん、ユキ。飲んで」
指先から滴る血を鼻先に持って行けば、ちろちろと一生懸命にユキは血を舐め取った。途端に向かいの視線が途端に鋭さを増したことに気が付いて、そっと澄也は視線を避けるように背を丸める。
血を飲むと力になると聞いていたから、澄也はこれまで何度もユキに血を与えてきた。一日に何度も魔物が出た日や、今日のように無理をさせてしまったときには、ねぎらいついでに血を与えるのがユキとの暗黙の了解になっている。けれど思い返せば、白神様の前でやったことはなかったかもしれない。
『まずい』
「でも術を剥がせた。ありがとうな」
『ユキ、えらい?』
ぺしゃりと伏せていた白い狐は、きらきらと目を輝かせて澄也を見上げる。えらいえらいと声をかけながら撫でまわしていると、とうとう耐え兼ねたように真っ白な手がぬっと割って入ってきた。
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