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第61話 朝まで一緒にいたかった⑧
白神様が目を見開く。今日はそんな顔ばかり見ている。そう思ったら嬉しくなった。いつまでも澄也ばかりが振り回されているのは面白くない。
「白神様が恵みをくれて、守ってくれたおかげで背も伸びた。体も健康だし、筋肉だってついた。肉は少し硬いかもしれないけど、食べ応えはあるんじゃないかな。俺の魂が白いうちに、一番おいしいうちに食べて欲しい。きっとこれからどんどん汚れていってしまうから」
「……なぜ」
少ない口数も、笑顔が消えた無表情も、いつもの白神様らしくない。けれど澄也は、何を考えているのか分からないその反応を深く考えようともしなかった。
なぜ汚れると分かるのかということだろうか。首を傾げながら澄也は答える。
「今みたいに白神様と会えなくなったら、俺はきっと水無川さんたちを恨んでしまう。当然みたいな顔をして大切な人たちと一緒にいられる人を、妬ましく思うことだってあるかもしれない。恨みも妬みも『正しく』ない。心も魂も、きっと今のままではいられない。きっと汚れる」
そうでなくても、健の聞いた噂話や、療養施設で会った女性の話もある。健にはああ言ったけれど、噂は噂だとずっと言い張ることができるとは限らない。そうなったとき、澄也は白神様を疑いたくもなかったし、なぜそんな話を澄也に聞かせたのかと理不尽に誰かを恨むこともしたくなかった。
「だから俺を食べて欲しいんだ。あげられるものがあるなら、一番良い状態でもらってほしい。白神様の栄養になれたら、ずっと一緒にいられるだろう?」
「……そう。それがお前の望みか」
「うん」
家族も幼なじみもみんな澄也から離れていった。白神様だけがずっとそばにいてくれた。白神様が澄也を食べてくれたなら、捨てられることも置いていかれることも、何も恐れなくていい。身勝手な欲だと分かっていたけれど、それは澄也にとって想像するだけでも体が震えるほど、甘美なことだった。
白神様は何も答えなかった。凪いだ瞳で澄也を見つめたまま、ただ一言「痛いよ」と呟いた。それが自分の願いに対する忠告なのか、それともつい力を入れて掴んでしまった手のことなのか分からなくて、澄也は叱られたような気分になりながら手を離す。
目を伏せた白神様は、しばらく考え込んだ後で、見間違えかと思うほど短い間、にいと意地悪く笑ったように見えた。
「おいで」
「え」
自由になった手で布団を軽く持ち上げながら、白神様は誘うように流し目を向けた。
「添い寝は嫌い?」
「し、知らないよ。したことない」
「お前、泊まりたいとずっと言っていたじゃないか。共寝がしたかったんだろう」
「変な言い方しないでくれよ。今はそんな話をしてないし」
目を泳がせながら、澄也は小声で反論した。けれど取り合う気配もなく、こいこいと白神様は澄也を手招く。
「いいから。使い魔のくせに寝こけている毛玉は置いて、こっちにおいで。澄也」
甘く名を呼ばれて心が揺らいだ。不自然なほど身動きしないユキを自分の布団に寝かせて、澄也はそろりと隣の布団ににじり寄る。白神様の隣に身を横たえると、抱き枕にでもするように、澄也の体はゆったりと抱きしめられた。
嗅ぎ慣れた桃の香りがふわりと体を包み込む。硬直した澄也をくすくすと笑いながら、ちょうどいい腕の置き場を探すように白神様は何度か腕の位置を変えた。
「もうそんなに背丈も変わらないから、やりにくいねえ。お前がもっと小さかったころにやっておけばよかった」
耳元で声が響く。澄也よりも少しだけ体温の低い体をぴたりと寄せられて、幸福感と緊張で頭がどうにかなってしまいそうだった。
無遠慮なのに優しい手が、面白がるように澄也の左胸に添えられる。
「あはは、すごい音。何をそんなに緊張することがあるというんだか」
「……違う。心臓が、止まりそうなだけ」
やり場のない手をそろそろと持ち上げて、白神様を真似るように胸元の布を掴む。途端に、それでいいとばかりに頭を抱え込まれて撫でられた。あからさまな子ども扱いは嫌なのに、甘やかされるように抱擁されると何も言えなくなってしまう。
強張りが解けてしまえば、感じるのは心地よい香りと自分のものではない体温だけだった。静かな部屋に響くユキの寝息と、耳を澄ませばかすかに聞こえる虫の声が眠気を誘う。まだ願いの返事を聞いていないというのに、いつの間にか瞼が重くなっていた。
幸せなまどろみに落ちかけたその時、くすりと小さく笑う声が耳に届いた。
「――楽しかったね、澄也」
何でもないことのように続けられた言葉を聞いた瞬間、澄也の全身から血の気が引いた。
「お前と過ごしたこの十一年、退屈とは無縁だった」
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