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第62話 朝まで一緒にいたかった⑨

「え……」  咄嗟に顔を上げようとした。けれど後頭部に回った手が、見上げることを許してはくれない。 「待つ楽しみというものもあるのだと、初めて知ったよ」 「なにを、言って」 「私に新しい楽しさを教えてくれてありがとう」 「やめてくれ。そんなお別れみたいな言い方……冗談にしたってたちが悪い」  何かがおかしいと気づいたときにはもう遅かった。ばちばちと何かが弾けるような音がして、小屋の外に青白い光がちらついた。自然の光ではない。  何かが外にいる。  焦燥に駆られて身を起こそうとしたけれど、体に回った腕が澄也を寝床から逃がしてくれない。 「お前が望むなら、寝ているうちに片付けたっていいと思っていた。ここではないどこかに攫ってやったってよかった。……だけど、気が変わった」  額に口付けられた瞬間、澄也の全身は痺れて動かなくなる。 「白神様……?」 「来客だ」  澄也の前髪をそっと直して、白神様は身を起こした。先ほどまで体を包んでいた体温を失った途端、穏やかだった夜の空気が不思議なほど肌寒いものに感じられる。 「願いを叶えてあげようね」  優しい笑顔が、恐ろしくてたまらなかった。 「白神様、俺は――」 「安心するといい。お前の望み通り、適当に相手をしてから離れるとしよう」 「違う!」 「何が違う? 私に逃げてほしいのだろう?」  何をされたのか、首を振りたくても動かすことさえできなかった。壊れかけた人形のように、ほんのわずかに頭を傾け、視線を動かすだけで精一杯だった。もつれる舌で、澄也は必死に訴える。 「違う、違う……俺の願いはそれだけじゃない! 俺を食べて。置いていかないでくれ……!」  袖で口元を隠して、白神様は耐えきれないというように笑いだした。いつものように冗談だと言ってほしかった。お前はすぐからかいを真に受けると言ってくれれば、子どものときのように大袈裟に怒ってみせるから。  けれど、美しい神様は残酷だった。ぴたりと笑い声を消した白神様は、酷薄に唇を歪める。 「お断りだよ」 「……え」 「私は誰かの思い通りに動くのは嫌いなんだ。そんなつまらないこと、したくない。それに、お前の味はもう知っているもの」  音もなく白神様が立ち上がる。さらりと目の前を横切っていく白い髪を、澄也はただ絶望しながら見送ることしかできなかった。 「待って……! 待ってくれ、白神様!」 「お前の神様はもうやめた。命拾いしたね、坊や」  甘く優しい声の調子は普段通りで、何を考えているのかさっぱり分からない。理解したくもなかった。 「……っ」  神様と呼ぶことが許されないなら、なんと呼び掛ければいいのだろう。暗闇に向かって歩いていくひとを呼び止めるための名前さえ、澄也は知らないというのに。 「大丈夫。あの鼻につく善人どもなら、頼まずとも喜んでお前の世話を焼くだろうさ」  扉が軋む音がする。最後に顔を見ることさえ許さずに、澄也の神様だったひとはあっさりと澄也を置いて行った。

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