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第63話 朝まで一緒にいたかった⑩

 呆然と目を見開いた澄也は、扉の外に消えていく背中を見送ることしかできなかった。悪い夢だと思いたかった。  ――何を間違えた? どうして?  どうして自分はいつもうまくできないのだろう。 「ユキ」  掠れた声で、澄也は隣にいるはずの使い魔に呼びかける。たとえ眠っていたとしたって、普段であれば澄也の意思を汲み取ってとっくに動いてくれているはずのユキは、答えるどころか身動きひとつしなかった。 「ユキ。ユキ……起きてくれ」  何度も繰り返し名を呼んでようやく、きゅう、とか細い声がひとつ返ってきた。顔を上げることさえつらそうな様子を見れば、ユキも澄也と同じように、動きを封じられているのだと嫌でも察する。声を出すことさえろくにできていないところからして、澄也よりもきつく動きを戒められているのかもしれない。  何かがおかしいと、もっと早く気付くべきだった。  まん丸の目をひどく悲しげに潤ませながら、ユキは必死に扉の外を見つめていた。その視線を追いかけて、澄也もまた扉のすき間からかすかに見える光景に目を凝らす。  暗くてはっきりとは見えないけれど、人影は全部で三つあった。それらを囲むようにして浮かぶ、式神らしき影もいくつも見える。耳を澄ませば何かが弾けるような音に交じって、剣呑な声がかすかに聞こえてきた。 「お前も大概しつこいね、青鬼。その人間贔屓はいつになったら直るんだい」 「何年経っても変わらねえ自己中野郎に言われたかねえな。弱った奴らばっかり喰い物にしやがって。鬼やめて淫魔に改名しろや」 「ヒトを殺すなというから殺さずにいてやったんじゃないか。文句を言われる筋合いはないねえ」 「殺してるだろうがよ」  何かが潰れる音や肉を殴打する鈍い音の合間に、苛立ちを隠さぬ声とけらけらと笑う声が交互に響く。叶うことなら、今すぐ割って入りたかった。けれど現実は、たかが口付けひとつで自由に動く力さえ奪われて、同じ場所に立つことさえ許されない。 「精気は喰ったけれど、肉を食べたおぼえはないよ。みんなちゃんと生きていただろう?」 「肉体は生きていても、心が壊されていた。それを鬼の所業というのです」  厳しい声とともに数珠が鳴る。水無川和尚の声だった。なぜ、と澄也は奥歯を噛んだ。なぜ彼らがここにいるのか。なぜ今日でなければいけなかったのか。澄也は神社の場所を教えていない。つけられていたということもないはずだ。  くすくすと耳に絡みつくような笑い声は途切れない。毒を滲ませた声は、「鬼の所業ねえ」と嘲るように繰り返す。 「淫魔呼ばわりしたかと思えば、今度は鬼だと認めてくれるのかい? 光栄だね」 「戯れ言を」 「私はただ、現実を厭うていた者たちに幸せな夢を与えてやっただけだよ。精気をもらうだけでは悪いだろう? 味の良い魂を持つ者ほど真面目で脆くて傷つきやすい。壊れているように見えるのなら、それはあれらが望んだからだ。壊したんじゃなくて、望んで勝手に壊れたのさ」 「あなたを慕う少年にも同じことを言うのですか? 彼はどこにいる」 「心配しなくたって、中で良い子に眠っているよ」  白鬼の金色の瞳が、一瞬だけ小屋に向けられた気がした。 「ゆっくり味わおうと思っていたのに、お前たちがこんな時間に尋ねてきたせいで喰い損ねた」 (嘘つき)  食べようとさえしてくれなかったくせに。そう考えた途端、わけもわからず涙が滲んできた。誰とも知らぬ人たちに乞われるがまま、彼ら彼女らを食いものにしてきたというのなら、なぜ澄也ではいけないのか。 「……元よりあなたと意見が合うとは思っていません。今日という今日は逃がさない。今度こそ封じさせていただく。悪辣な白鬼よ」 「嫌だね。お前たちとの遊びはおしまい。封印なんて退屈なこと、されたくないよ」  白い影が軽やかに跳躍する。長い髪とゆとりのある袖を風にはためかせて、いつも白い烏のいた高い木の頂点に悠々と白鬼は足をつけた。澄也の位置のちょうど対角線上に立った白鬼は、月を背にして美しく微笑んだ。 「お別れだ」 「待てやこの野郎!」 「待てと言われて待つ馬鹿がいる?」  式神たちの追跡も、青い鬼の伸ばす手も、白鬼の袖ひとつ捉えることができなかった。最後の最後に小屋に目を向けて、白鬼は楽しげに唇を動かした。「またね」と聞こえるはずもない声が聞こえた気がしたけれど、ただの澄也の願望だったのかもしれない。  笑い声だけが夜空に響く。声が消えたときには、影に溶けるようにして白鬼の姿は消えていた。

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