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第64話 朝まで一緒にいたかった⑪

「……どうして」  目を見開いたまま、押し殺した声で澄也は呟く。血が流れるほど強く拳を握って初めて、澄也は己の体が自由に動くことに気がついた。  今さら動けたって何の意味もない。役に立たなかった自らの手足をへし折ってやりたいくらい、心がぐちゃぐちゃに荒れていた。  ふらりと立ち上がった澄也は、靴を履いていないことも気付かぬまま、つい数秒前まで神様のいた場所を見つめて歩き出す。 (月のある方向。高い木のある場所)  途中でユキが、必死に何かを叫んでいた。足にしがみつかれた気もしたけれど、抱き上げてやるだけの余裕は澄也には残っていなかった。  だってほんの少し前まで、あのひとはたしかにあの場所にいたはずなのだ。  手を伸ばし、何かに急き立てられるられるように澄也は足を踏み出そうとする。けれどその瞬間、足場が消え、がくりと目線が落ちた。  前に倒れかけたところで、今度は逆に肩が抜けそうなほどの力で背後から腕を引かれる。  気付いたときには、澄也は鈍い音を立てて尻もちをついていた。 「――そっちは崖だっつってんだろうが!」  聞き覚えのある声だった。声のした方を見上げれば、額に汗を張り付かせた健が歯を食いしばるようにして澄也の腕を掴んでいた。まるで今の今まで走り回ってでもいたかのような汗だくの健は、昼間見たままの服装のままで、今まで見たこともないほどよれた格好をしていた。 「死ぬ気かよ! 馬鹿野郎」  健は泣き顔と怒り顔を混ぜたような苦しげな表情を浮かべていた。常であれば、どうかしたのかと声を掛けることができたかもしれない。けれど今の澄也には、噴き上がる感情を抑えるだけの分別もなければ、他人を思いやれるだけの余裕も残っていなかった。  なぜ水無川和尚たちがここにいるのか。なぜ今日でなければいけなかったのか。誰がそれを引き起こしたのか。頭の中で点と点が繋がって、目の前がちかちかとするほど急激に視界が狭まっていく。 「……お前……!」  自分の喉から出たとは思えないほど低くしわがれた声だった。ほとんど弾けるように立ち上がって、澄也は健の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶる。 「なんでここにいる!」 「……う、ぐ……っ!」 「お前が! あの人たちに知らせたのか! そうだよな、だって俺は誰にも何も言ってない。分かるはずがない!」 「はなせ、くるし……っ」 「俺がお前に何をした? そこまで俺が嫌いなのか? ああそうだろうな! これ以上ないやり方だ。最悪のな!」  違う。責めるべきではない。こんなものはただの八つ当たりだ。正しくない。  分かっていても、何かのせいにしなくては堪えられない。頭がおかしくなりそうだった。 「健、お前が……お前のせいで……っ!」  激情に突き動かされるまま言葉を吐き出しかけたその時、唐突に澄也の足が浮いた。明らかに人のものではない力で背後から羽交い締めにされた澄也は、軽々と地面から持ち上げられる。体が浮くと同時に、健の胸倉を掴んでいた手も外されていた。地面に落ちた健が激しく咳き込む。 「もうやめとけ、澄也」  困り切った様子の青鬼に続いて、諭すような声が後ろからも聞こえてきた。 「……彼は君を案じて、我々に知らせに来てくれたんだ。君を助けようと、昼からずっと走り回っていた。君の了承を得ずに場に割り込んだことは謝罪するけれど、どうか責めないであげてほしい、澄也くん」  さくさくと草を踏みしめながら、水無川和尚が近づいてくる。痛ましいものでも見るように澄也にちらりと視線を向けた後で、水無川和尚は咳き込む健の背を控えめに支えた。けれど澄也の耳には、そんな言葉もほとんど届いていなかった。 「放せ!」  誰に向けているものかも定かではない怒りで、頭がどうにかなりそうだった。勝手に滲む視界をまばたきで払っては、ただひたすらに目の前の者たちを睨みつける。どれだけ暴れようと腕を剥がすことができない自分の無力さが、悔しくて仕方がなかった。  そんな澄也の視線を真っ向から受け止めて、水無川和尚は静かに首を振った。 「君にも言いたいことはきっとあるだろうけど、少し頭を冷やしなさい。家まで送ろう。こんな時間に来た我々が言っても説得力がないけれど、夜に出歩くのは危険だ。足元を見る余裕もないならなおさら危ない。ご家族だってきっと君を心配しているだろう」 「家族?」  何を言っているのか聞く余裕もなかったけれど、その言葉だけはいやに澄也の神経を逆なでした。は、と失笑がこぼれる。泣きたくもないのに勝手に流れる涙が、気持ち悪くて仕方がなかった。 「血が繋がっているだけの相手が家族? 俺が怪我をしようが病気になろうが、生きてようが死んでようが、誰も気にしやしない。白神様だけが俺を心配してくれた。叱ってくれた。毎日そばにいてくれた。愛してくれた……!」  喉が詰まって声にならない。けれど言わずにはいられなかった。 「俺に家族なんてものがいるとするなら、白神様だけがそうだった! なのに――!」  何かを間違えてしまった自分が憎い。いらない者たちを招き入れた健が憎い。澄也の日常を壊した水無川和尚と青嵐が憎い。他人と違うだけでろくに役にも立たない力が憎い。捧げたいひとに食べてもらうことさえできないくせに、不幸だけを無意味に引き寄せるという己の魂も、何もかもが憎くてたまらなかった。 「どうして」  魂が汚れるまで一緒にいると約束してくれたのに、約束を破ったひとが許せない。ともに過ごすあたたかさと幸せを骨の髄まで教え込んだくせに、あんなにもあっさりと澄也を捨てた美しい鬼が、憎かった。 「放せ! 放せ……放せっ、はなせよ!」  今まで感じたこともない黒い感情が、体をじくじくと蝕んでいく。無我夢中で喚きながら、澄也はひたすらに手足をばたつかせた。 「……だめだこりゃ。一回落とすぞ」 「青嵐、手荒なことは――」 「首輪つきだ。多少痛めつけたって死にやしねえよ」  短い会話の後で、首を締め上げられる感覚とともに澄也の視界は暗転した。

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