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第65話 朝まで一緒にいたかった⑫
『スミヤ、おきて。スミヤ……』
きゅうきゅうと寂しそうな声が絶え間なく澄也を呼んでいた。熱く湿った感触が、何度も繰り返し頬を舐めていく。
ユキが起こしに来ているのだろう。分かっているけれど、もう少し眠っていたい。澄也は顔の横にいるもふもふとした感触を、優しく押し退けた。
「……ユキ、いい子だから……」
そう声を掛けようとしたのに、喉が痛んでろくに音にはならなかった。軽く咳き込むと、ますますユキの鳴き声は悲痛な響きを増していく。
『しんじゃいやだよ、スミヤ』
「――あんたいつになったら起きるわけ? いい加減それ、うるさいんだけど」
縋るような声と凍るような言葉が、同時に澄也の鼓膜を叩いた。優しいユキの声はともかく、後者の女性の声は、澄也にとっては間違っても聞いて嬉しいものではない。急激に意識が浮上して、飛び起きるように澄也は身を起こした。
扉に肩を預けるようにして立っていたのは、きつい顔立ちをした女だった。誰に言われたこともないけれど、血の繋がりが嫌でも分かる程度には、澄也と似た顔をしている。その顔を見てようやく、澄也は眠った覚えもないのに自室で寝ていたことにようやく気がついた。
「母さん? なんでこんな時間に家にいるんだ」
母と生活の時間帯が被ることはまずないし、あったとしても互いにわざわざ閉じた部屋の扉を開けることはない。思わず呟けば、母はあからさまに顔を顰めた。
「あんたのせいで仕事を切り上げさせられたからに決まってるでしょう。本当に迷惑」
「切り上げさせられた……?」
「そんなことより何それ。狐? 魔物に関わるべきじゃないって、その年になってもまだ分かってないなんて……人の家におかしなものを持ち込まないで。早く黙らせて」
不機嫌を隠そうともしない鋭い声に、澄也はユキを庇うように腕の中に抱え込んだ。
普段であればユキは他人の目のあるところでは澄也の影に隠れるというのに、今朝は頑なに澄也のそばから離れようとはしない。なぜ今日に限ってと考えて、――昨夜起きたことを思い出し、ざっと澄也の頬から血の気が引いた。
「……夢だ。夢。悪い夢……」
信じたくなかった。そんなことがあるはずがない。いてもたってもいられなくて、中身などないに等しい財布を掴み、澄也はふらりと立ち上がった。着替えもせずに外に行こうとする澄也を、訝しげな母の声が引き留める。
「どこに行く気なの」
『スミヤ、スミヤ。まって』
母の声には答えないまま、澄也は足に縋りつくユキをそっと抱き上げた。
『いかないで。スミヤ、ふらふらだ。しんじゃうよ』
「平気だよ」
覚えのない場所があちこち痛んではいたが、自分の体のことなどどうでもいい。きゅうきゅうと心細そうに鳴くユキを宥めていると、聞こえよがしな舌打ちが割って入ってきた。
「今、それと話したの? 気味が悪い。ああ本当に、昨日そのまま消えてしまえばよかったのに」
「……『昨日』?」
澄也はぴたりと足を止めた。まばたきもせずに振り返れば、母はますます不機嫌そうに顔を歪める。
「夜に外に出た挙句に倒れたんでしょう。何をしたのか知らないけど、ひとりでどうにかしなさいよ。あのヤクザみたいな人たち、昼にまた来るって言ってたけど……本当に迷惑」
「……面倒をかけてごめん。もう迷惑はかけないよ」
二度と、と呟けば、母は小さく眉を寄せた。
「どういう意味?」
「言葉通りだ。俺は多分、もうここには帰らない。今までありがとう」
自分の口から出た言葉なのに、その言葉の空虚さに笑い出しそうになった。澄也がこの人に本当の意味で感謝できるようなことなど、何かあっただろうか。
産んでくれたことだろうか。住まわせてくれたことだろうか。あるいはもっと根本的に、疎みはしても殺さずにいてくれたことを感謝するべきだろうか。恩と言えばどれも恩だが、何も知らなかったころに死んでいればこんな思いをすることもなかったのだと思うと、感謝よりも恨みが勝る。
「……何かあったの?」
困惑が滲んだ声には背を向ける。たとえその声にひとかけらの情が含まれていたとしても、今さら母と話したいことなど何もない。
ユキを抱えたまま、澄也は振り返ることなく外に出た。
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